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solar altitude −6°

いつも空を見上げている。


顔を上げて,空気を肺一杯に吸い込んで季節の匂いを感じ,雲があればその形に目を楽しませ,風の流れを読むことが常だった。

尤も自分ではそれに気づくことなど無かった。
ただ,彼はよく言われるのだった。

「ひろしくんたら,いつも上を向いてる」と。



小さな贈り物が大事に仕舞いこまれたランドセルを背負ったまま,夕闇が迫る空の下家路を急ぐ。
車道を時折行き来するヘッドライトが,少年の姿をぼんやりと照らしだしては遠ざかって行く。


ああ,一番星だ。


西の空,地平線に沈んだ太陽が残す薄い光のもとで小さく,しかし確かに輝く一点を見つけひろしは少し微笑んだ。


空を見ていると,色々と悩んでいる自分がちっぽけに思えてくる。
もっと男らしく堂々としていたいと願う気持ちとは裏腹に,もうずっと,彼は自分の立ち位置すら定められないままだ。
だから空を見上げる。
そうしていると,少しだけ小さな自分を忘れられた。


普段から空を眺めている彼の友人は,頭の中に正確な星座図があるかのように詳しかった。
広大な宇宙のなかのほんの一欠片の銀河,その端にこの地球は浮かんでいる。
ここからいつか飛び出して,知らない世界を見に行きたいのだと吼児は熱っぽく語るのだった。


ひろしは幾度か彼から本を借りている。
そのお陰で彼は少し星に詳しくなった。
真昼の空でも,本当はいつでも星は瞬いているのだと言う。
でもこの地上では,闇が世界を覆っているときでしか,我々はその瞬きを見ることができないのだ。

ひろしは吼児が抱くほどの情熱を持ち合わせているわけでは無かった。
宇宙のどこかにだれか知らない人たちの星があって,きっとその世界でも日々の営みが繰り返されているという浪漫に少し酔いしれることがあったとしても。
ちっぽけな彼は自分のことだけで日々精一杯で,遠い世界に想いを馳せてばかりいられない。

ただ,今こうして大地に両足をくっつけて空を見上げるだけでも,小さな冒険はできる。

世界を隅々まで照らしていた太陽が姿を消し,代わりに星々が夜空を支配し出すまでの,ほんの数時間。
空が闇と光の間を彷徨う黄昏時の西の空に,宵の明星はその姿をくっきりと現す。
幼いころは,それが金星だとは知らなかった。
ただ,誰よりも先にそれを見つけることが,昔からひろしは好きだった。



ひろしくんはいいなあ。

背が高い分,空が近く見えて。



星が綺麗で素敵と言う癖に,彼女は金星を見つけることが下手だった。
しかし,それでもひろしは一向に構わなかった。
何度でも,その都度教えてあげればいいからだ。
その代り,ひろしは足もとを見られない。
道端に咲いた小さな草花や,水溜りが映す空の色や,こつこつと立てる自分と彼女の足音を近しく感じることが出来ない。
それは,もっぱら彼女の得意分野だった。
だから,それで良かったのだ。




ごう,と音を立てて車が通り過ぎる。
少しの排気ガスと,大きな車体が残して行った風の冷たさに顔をしかめていると,10m程先でぶすんと音を立てながらその車が止まった。
「もしかして,いいんちょですダー?」
運転席からサングラスを掛けた男が顔を出した。


配達を終えて店へ戻る途中らしいタイダーの,暗くなって危ないダーと心配する声に断る理由も見つけられない。
ひろしは有り難く助手席へその身を沈めた。
シートベルトを締めて,「おねがいします,タイダーさん」と軽く頭を下げる。

寒いねえとかお腹がすいたダーだとか,とりとめもない会話を繰り返しながら,徐々に夜の帳が覆い始めた空の下を行く。
少し強めに設定された空調が,徐々にひろしの体を温めていく。

「いいんちょは,チョコもらったダー?」
「え?」
「今日はバレンタインデーなんですダー。好きな人にチョコを贈る日ダー?」
「なに,タイダーさん,バレンタインデーのこと知ってたの」
「もちろんダァー」
信号機が黄色に点滅し,タイダーはゆっくりとブレーキを踏む。
フロントガラス越しに見えた交差点は人影もまばらだった。

「去年はベルゼブさまにチョコを贈ったんダー」
「そうだったの」
「でも今年は」
タイダーはハンドルを握ったまま俯いて,小さな吐息を洩らした。
「贈ることが出来なくて,残念ダー」
「…そっか」
なんと言ってあげたらよいのかわからなくて,ひろしは正面を向く。

9月のあの日のように,今日は女の人がチョコレートを贈る日なんだと説明するのは簡単だ。
でもだからといって,誰がタイダーに異を唱えられるだろう?

「でもいいんダー」
「……」
「ワシがベルゼブさまを好きなことには,変わりがないダー」
「…そうだね」
「そうですダー」
歩行者用の信号が点滅を始めた。
もうすぐ,この車が走り出す。

「それに,女将さんがワシにもチョコを作ってくれるって言ってたんですダー」
「へえ」
ワシ,とっても楽しみダー,と言う声が,本当に嬉しそうに車内に響いた。
「良かったね,タイダーさん」
「ハイですダー」
ギアを切り替えながら,タイダーが笑う。


「ねえタイダーさん」
「なんダー?」
「一番星って知ってる?」
「いちばんぼし?知らないダー」
「あのね,一番星っていうのは,夜が来るときに一番良く見える星のことなんだ」
「へぇーそうなんダー。ワシはベルゼブさまと一緒だった時は宇宙にいたけど,知らなかったダー」
ふふっ,と小さく微笑んでから,ひろしは,
「そりゃそうだよ。宇宙じゃずっと光ったままなんだから。地上に居ないと,気付かないんだ」
ゆっくり言葉を口にする。
「ワシにも見えるダーか?」
「勿論。きっと今も,見えるよ」

そう言って,ひろしはガラス越しに広がるコバルトブルーの空を見上げる。
「あとで,教えてあげるよ」
「お願いしますダー」


ぎゅうと,ランドセルを抱える腕に力がこもった。
今,あの子は空を見上げているだろうか。
一人でも一番星を見つけられただろうか?


「ねえタイダーさん」
「僕,好きな女の子が居るんだ」
「その子は,僕じゃない別の奴を好きなんだ」
「だけど,…だけどね,僕にもチョコを,くれたんだ」
「僕は一番じゃないけれど。でもね,僕にもくれたんだ」
「僕は結局,それで嬉しくなっちゃうんだ」
「情けないけど,でもやっぱり」
「それで嬉しいって思っちゃうんだ…」


言ってしまおうかと思った。
でもやっぱり,口に出さなくてもいいと思った。
だからひろしは,シートに体を預けたまま黙っていた。


<< END >>
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続き物「chocolate」のエピローグ的な位置づけで書きました。

OVA第一話の印象が強いからか,ひろしとタイダーの会話がすんなりと浮かんできました。
ひろしはもう,「僕は誰のことも好きじゃないよ」って言わないと思います。

なんだかこの二人が揃うと,和みます。
私が。