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ミルクティー

陽昇川沿いの道路を、ゆっくりと歩いて行く一人の女性の姿があった。
その女性は、華奢で小柄な体には大き過ぎるくらいの鞄を持ち、そのせいか、歩を進めるその姿はどこか危なっかしい。
可愛らしい顔立ちとは裏腹に、彼女の表情は暗かった。
「はあ…」
思わず、ため息が漏れる。
栗木容子、20歳。
小さい頃から夢だった、保育士の資格を取って、ありがたいことに、地元の保育所に勤務し始めてから半年以上経つ。
まだまだ、日々失敗を繰り返し、うまくいかないことが多い。



子どもは確かに可愛いが、甘やかすと調子に乗っていたずらをするし、
玩具の取り合いやおやつの分量の差に嫉妬をして、言い聞かせても中々わかってくれない。
体が弱くて、しょっちゅう熱を出す子もいる。
親にもいろいろな人がいて、迎えの時間に平気で遅れてくる人や、毛布やタオルなどを持ってこない人、文句ばかりを言ってくる人…、

勿論、いい人もいるけれど、まさか、子どもだけでなく親にまで悩まされるとは思っていなかった。



不満は、どんどん出てくる。
でも、念願がかなって今の職業に就くことができたのに、ちょっとしたことで夢をあきらめるなんてできない。
きっと、それはどの職に就いたとしても同じことなのだろうと思う。
ただ…、日常のちょっとしたことで躓き、憂鬱な気分に振り回されてしまう自分が、情けなくもあり、自信が持てないでいる。



もっと、ちゃんと大人にならなくちゃいけないのに。
こんなままじゃ、いつまでたっても立派な保育士なんてなれない。
不満は、次第に自分への嫌悪にうつってしまう。



周りは、皆ベテランの先輩ばかりだし、愚痴を言えるわけがない。
大学の友人も、たまにメールをするくらいで、じっくり相談できない。
泣き言ばかりを口にしちゃいけないと思っているうちに、いつのまにか誰に対しても、本音を言えなくなってしまった。



容子には、ずっと付き合っている恋人がいる。
彼は幼馴染でもあり、ありのままの容子を理解し、好きでいてくれる大事な存在だ。
しかし、彼は高校を卒業したのち、進学先を東京の大学に選び、今は東京で一人暮らしをしているため、なかなか会うことが出来ない。
容子にはよくわからないが、理系の大学生というのは、日々実験に追われて相当忙しいようで、朝から夜遅くまで研究室に入り浸っているそうだ。
優しくて、面倒見のいい彼だけに、余計な心配をかけさせたくないし、愚痴ばかり言ってウンザリされたくもない…。
時々電話やメールで連絡を取り合っているものの、最近は、何を聞かれてもすぐに大丈夫と言ってしまう自分がいる。



容子は、職場からの帰りがてら、時々陽昇川公園に寄る。
ここは、自分自身が幼稚園児だったころから慣れ親しんだ公園だ。
日が暮れた誰もいない公園の、ブランコに腰をおろして、自販機で買った紅茶を飲んで、ちょっとだけぼーっとする。
一人きりになって、ゆっくりできる時間を持つことが、容子にとって大事になりつつあった。




大きな鞄を地面に下ろし、小銭を取り出す。
もう、すっかり秋だな。
自販機で暖かいミルクティーを買い、缶を掌で包み込みながら、容子は思った。
もうそろそろ、冬物のコートを出さなくちゃ。
そんなことを考えながら、ふと、ブランコの方に目をやると。

誰かが、座っていた。
すっかり日が暮れて、寒くなってきたこんな時間に、自分以外に公園に来る人がいるなんて。
目を凝らしてよく見ると、その視線に気づいたのか、その人がこちらに向かって手を振った。
ブランコの後ろに外灯があって、逆光でよく見えない…。

すっと立ち上がった背の高いその人は、
「クッキー!」
と呼びかけてきた。




その刹那、容子は彼だとわかった。
わかったけれど、驚きが先に立って、動けなかった。何も、考えられなくなってしまった。

え? どうして? なんで? なんでここにいるの?




彼は、容子のもとへ走り寄ると、にっこりと微笑んだ。
「ここで会えるんじゃないかって思ってたんだ」
「……」
「どうしたの?クッキー?」
「…なんで」
「え?」
「なんで、ここにいるの?」


「ああ」

彼はまたゆっくりと微笑む。
「今ちょうど、学祭シーズンでさ。講義も無いし、帰ってきたんだ」
「だって、ひろし君、何も言ってなかったじゃない」
「ごめん。急に決めたから…。それに、クッキーをビックリさせようかな、と思って」
「もう…。」

容子も笑おうとしたが、顔が動いてくれなかった。
それどころか、どんどん顔がこわばっていくのがわかる。

「ごめん、びっくりさせすぎちゃった…かなあ…」
「びっくりしたもん!」
「ごめん、ごめんよ!そんなに怒ることじゃ…え…?」
「……?」


「クッキー、泣いてるの?」
「…え?」

自分でも、よくわからなかった。あたし、泣いてるの?
折角会えたのに、なんで…。なんで、涙が出てくるんだろう?


「…クッキー」
ひろしが心配そうにのぞきこむ。
その優しい、でも心配そうな眼差しを見ると、なぜだかますます涙が溢れてきてしまう。

「違うの。違うんだよ? 怒ってるんじゃないの。悲しいんじゃないの。
 …なんか、よくわかんないけど…」

しゃくりあげてしまって、うまく言葉が言えない。
自分の感情が、コントロールできない。




「クッキー…」
ひろしは優しく容子の肩をぽんぽんと叩いた。
昔から、容子が泣くたびにそうしていたように。
容子が落ち着くまで、ずっと。



外灯の明かりが、二人の影を映しだす。
川からの少し、冷たい風が、公園を通り抜けていく。
風に乗って、落ち葉がかさかさと音を立てて飛んで行った。

ようやく、容子の涙が止まった。




「…落ち着いた?」
「ご、ごめんね…。あたしったら、また…」
途端に、自分が恥ずかしくなってしまう。
「もう、大丈夫?」
「うん…」
「良かった」

本当に嬉しそうに、ひろしが微笑んだ。




その笑顔を見て、容子はほっとする。その瞬間、気づいた。
「…なんだ」
「え?」
「…ううん、なんでもない!」


自分が泣いてしまった、理由。

本当に、嬉しかったから。ほっとしたから。安心したから。
…だから、なんだ。



そう気づいて、ようやく容子に笑顔が戻る。

「おかえりなさい! ひろし君!」
「…! ただいま!」
にっこり微笑むひろしを見て、容子は思わず抱きついた。

「え…?」

ひろしはびっくりしたようだったが、ゆっくりと容子の背中に手を回す。

あったかいひろしの体温を感じて、容子はまたちょっと、涙が出そうになった。

今度は、幸せを感じて。大好きな人に会えた幸せを感じて。

落ち込んでいた気持ちが嘘のように飛んでいく。




「ねえ、クッキー、それなに?」
「ん?」
「なんかごつごつしてるんだけど…」
「あ!忘れてた」


容子は顔をあげ、手に持っていた缶をひろしに見せる。

「あ〜あ、冷めちゃったみたい」
「ほんとだ。じゃあ」

ひろしは缶を自分のジャケットのポケットに入れて、にっこり笑った。

「家に帰って、あっためて一緒に飲もう。送ってくよ」
「うん!」

ひろしは片手でひょいと鞄を持ち上げ、もう片方の手で容子の手を握り、歩き出す。
容子の歩幅に合わせて、ゆっくりと。




容子が落ち込むたび、悲しくなるたび、不安になるたび、いつもこうしてひろしに救われている。
あたしも、がんばらなくちゃ。
いつか、自分も彼を支えてあげられるように。
自分の笑顔で、彼に元気を与えられるように。
容子は、ひろしの手をぎゅっと、握った。


<< END >>
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クッキーとひろしが20歳のとき、晩秋の頃を想定しました。
クッキーは、短大保育科を卒業して、地元保育所に就職しています。
ひろしは、理系(工学部)大学進学のため、東京に住んでいて、二人は遠距離恋愛中。
親友や恋人って、ありのままの自分を受け止めてくれる大事な存在だと思います。

クッキーはおそらく、コーヒーは苦手そうということで、ミルクティーにしてみました。