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さあ,となりの子と

さあとなりの子と手をつなぎましょうね。
幼稚園時代によく言われたお決まりの文句だ。
だから容子は自分の恋人とはじめて手をつないだのはいつだったか覚えていない。

物心ついたころからひろしはずっと容子の傍にいた。
ふたりはずっと兄妹みたいにして育ってきたのだ。
そんな見慣れたひろしの横顔を見つめるのが,でも容子は好きだ。
自分の方を向いて笑ってくれるのが一番好きであるにしても。


ひろしは散歩が好きだ。
考え事をするのに,気分転換をするのに丁度いいのだと言う。
時々,容子はその散歩にくっついていくことがある。
ある時はおしゃべりに夢中になるし,ほとんど話らしい話をしない時もある。
でも会話がないからと言って別段苦にならない。
同じ景色を見て,同じ空気を感じて,それだけで満足できてしまうからだ。


朝晩はまだ厳しい寒さが肌を刺すけれども,日中は暖かさを感じるようになってきた。
民家の塀から腕を伸ばした,梅の木。枝についたたくさんの小さな蕾たち。
春が,もうそこまで来ている。

ひろしは空気の匂いが季節によって変わるんだと言う。
だから容子は思い切り空気を吸い込んでみる。


空を見上げるとどこまでも鮮やかな青が広がっていて,容子はやけに嬉しくなった。
何でもない今この瞬間が,妙に愛しく思えてくるから不思議だ。


容子はそっと隣を歩くひろしの顔を盗み見る。
容子の頭よりも高い位置にある彼の顔を見ながら,容子はあれくらい背が高かったら世界はもっと違って見えるんだろうな,少しくらいあたしに分けてくれてもいいのに,神様のケチ。と思った。

何かに熱中している時,真剣に考え事をしている時,ぼーっとしている時。
自分以外のことを見ているひろしの顔を,気づかれないようにそっと見つめる。
容子を意識してない素の彼を見るのが面白くて,こんなに長い時間一緒にいるというのに,ちっとも飽きることがない。


ひろしは普段は落ち着いていて,頼りがいがあって,容子よりもずっと大人びているのだけれども。
そしてそれは当たっているのだ,勿論。
でも容子は知っている。


多分ひろし君は,結構いろいろ嘘をついている。
嘘,というか,虚勢。
こころのなかではじたばたして,あわてて,あせって,でもなんとか格好良くしようと頑張っているのだ。きっと。


少しでも頼りがいのあるように,しっかりしているように,ひろしは背伸びをしているところがあるのだと思う。
その必死さ加減が,ときどき彼の表情から垣間見えるのだ。
しかし容子はそのことを口にしたりしない。決して。
だってひろしが一番必死になるのは,ほかならぬ容子の前であるのだから。



容子がちょっと意地悪なことを言ってみたり,わざと機嫌を損ねてみせたり,強引にいちゃいちゃしてみたり。
予想外の行動を取るたびに,ひろしは途端に子供のように慌ててしまう。
はにかむ横顔や,照れた表情。焦っている顔。
その,ちょっと困った顔が愛しく感じられて,容子はますます調子に乗ってからかってしまう。


クッキーはころころ表情が変わって,見てて飽きないよ。
ひろしがいつだったかそう容子に言って笑って見せたけど,自分だってそうであることにひろしは気づいていないようだ。
いつでも容子の前ではしっかりした,頼りがいのある男であろうとしている彼に,あたし実はひろし君のちょっと子供っぽい表情が好きだよと伝えたら,吃驚するだろうか。
ひろしくんは格好付けなくても,十分素敵なのに,って言ったら,やっぱり拍子抜けしちゃうのかな。それとも照れてしまうんだろうか。
そんなことを想像して,容子はちいさく噴き出す。



「どうしたの?クッキー」
ふいに頭の上から声がして,見上げるとひろしが不思議そうに彼女を見つめていた。
「ん。なんでもないよ」
「そう?」


さあ,となりの子と手をつなぎましょう。


容子はひろしの手を取り,ぎゅっと握る。
見上げてにこっと笑うと,ひろしは照れ臭そうに,でも嬉しそうにはにかんだ。

ああ,そういえば昔から手をつなぐたびにひろしくんはこんな表情を見せてくれていたんだ。
あたしの大好きなひろしくんの笑顔だ。
右隣から見上げる大好きなひろしの。



「さて,どこへ行こうか?」
ひろしが優しくそう聞くのを,容子は頭のてっぺんで受け止めてから,
「どこへでも!」
そう答える。
このままどこへでも,ずっと並んで歩いていけるなら。
容子はわざと歩幅をひろしに合わせてばりばりと歩いた。


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クッキーはきっと小悪魔!小悪魔に違いない!と想像しています。
ひろしはいいひと過ぎるところがあるだろうから,クッキーの黒い部分でちょうどバランスがとれているカップルなのではないかと。

ひろしとクッキーはのんびりほのぼのと散歩している姿が似合いそうです。

…しかし,何だこの倒置法のオンパレードは!