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春と手紙

二日酔いの目蓋に朝日がまぶしくて,僕は目に滲んだ涙を指で拭う。
うちの教授連は揃って酒豪だし,先輩は酒癖が悪い。
僕のような下級生は宴会の準備から片付けまでずっといなくちゃいけないし,こんなふうに朝まで飲んでもまた9時からは実験室に行かなくちゃいけない。
ほんと,もうちょっと下の人間のことも思いやってほしいよな。

花見だ,花見だと騒いでいたけれど,実際花を愛でる人間なんて何人いるんだろうか。
要は,何かにかこつけて酒を飲んでれば満足なんだろうな,実際は。

腕時計(バイト代を貯めて買ったデータバンク。結構気に入ってる)を見るともうすぐ午前6時。
とりあえずシャワーを浴びて,新しいシャツに着替えよう。
冷蔵庫に牛乳が残っていたし,確かバナナもまだあった筈だ。


゛朝ごはん,ちゃんと食べなくちゃ駄目だよ”

彼女の声が僕の脳裏に響く。

うん。ちゃんと,食べるよ。
僕は頭の中でそう答えて,アパートへ続く小道を登っていく。



ポケットから鍵を出す。
早朝だから,きっと周りの住人はまだ眠っているんだろう。

このアパートは学生専用だ。僕は隣人の顔もよく知らない。
東京に住んでる学生の生活なんて,きっとこんなもんだろう。



そっとドアを閉めて,僕はスニーカー(プーマのやつ。これも高かったけど気に入ってる)を脱ぐ。
半ば習慣のようにポストを覗くと,わけのわからないチラシに混じって,桜色の封筒が見えた。

慌ててポストの蓋を開け,封筒を取り出す。
やっぱり彼女からだ。


部屋の電気をつけて,机の引き出しから鋏を取り出した。
中の便せんを切ってしまわないように気をつけながら封を開ける。
桜色の封筒の中には,やっぱり同じ桜色した便箋が入っていた。



夢中で彼女の文字を追う。
少し丸みがかかった,小さく並んだ彼女の文字たち。
内容はなんてことはない,彼女の日常の報告(職場に新しい子どもが入所したらしい)と,僕の生活を案じる言葉たち(ご飯は食べてるの,とか,バイトのしすぎに気をつけてね,とか)だ。
でも僕にはそれがとても大切で,重要なことなんだ。


便箋とともに入っていた写真には,彼女と僕の両親が並んで微笑んで映っている。
僕はしばらく陽昇町のことを思い浮かべた。



『こちらも桜が満開です。陽昇川公園の桜並木はさくらの花びらが散って,じゅうたんみたいで綺麗でした。ひろしくんにも見せたかったな。』

目を閉じたらすぐに,僕の意識はその桜並木の下へ移動する。
うん。とっても綺麗だね。



地元にいたとき,僕はよく彼女と散歩した。
陽昇川公園は昔から僕と彼女のお気に入りの場所だ。

僕は空気を思い切り吸い込んで,晴れたら晴れの,曇なら曇の,雨なら雨の匂いを嗅ぐのだ。
そして彼女は僕の傍らで,小道にたんぽぽが咲いているだの,雨垂れのしずくが水溜りに作る模様だの,雲の形だのにいちいち感嘆の声を上げるのだ。

そういうふうにして,僕らはずっと巡ってくる季節を迎えていた。



カーテンを捲って窓を開ける。
僕のアパートに,暖かな日差しと軽やかな空気が流れ込んでくる。
今,ようやく,春がこの部屋にやってきた。


うん。やっぱり空気が全然違うな。

゛ひろしくんたら,そんなに大きく吸い込まなくてもいいじゃない”

彼女に笑いながらそう言われた気がして,僕はちょっと笑った。



このごろ,日増しに暖かくなって,風は軽さを増して,心地よくなっているけれど。
でも最近そんなこと,気にしていなかった。
桜色した彼女の手紙と,彼女の言葉で,僕は春の季節がやってきたことを実感できた気がする。



シャワーを浴びよう。
今日の空に負けないくらい,綺麗な青いシャツを着よう。
残りものだけど,牛乳とバナナをお腹に入れよう。
そして誰よりも晴れやかな顔をしてまた頑張ろう。


そうだ,学校の桜が散ってしまう前に写真に撮って,クッキーに送ってあげようか。
タオルを取り出して,浴室のドアを開けながら僕は自分のアイデアに満足した。


<< END >>
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ひろしが東京で一人暮らしを始めて4年目の春,を想定しています。
忙しい毎日の中でほっと息をつける瞬間は,空の青さに心を奪われるときとか,風の匂いを嗅ぐときとか,些細なことかもしれません。
そしてもちろん,大事な人を思い浮かべるときも。
遠くに離れていても,いつも近くに感じている。ひろしとクッキーは,そんな関係であってほしいです。