散る散る、満ちる
どうやら人は桜の花に意味を求めすぎる。
やれ蕾が膨らんだだの,何処其処の桜はもう花開いただのと騒がしいばかりか,花も見頃になった暁には木々の下でどんちゃん騒ぎに明け暮れる。
その実,花が散り去ってしまうともうその先,季節が一巡りするまでは見向きもしない。
確かにほんのり紅を帯びた白い花弁は人の目を奪うほど際立って美しいものであるし,桜の花に人一倍想いを馳せる日本の風土というのもあるだろう。
花が咲いた,ただそれだけのことに,人はどれ程の想いを傾けるのだろうか。
そして花が散ることを,なぜ人は惜しむのであろうか。
もっと泰然と受け入れられぬものかと,常々思う。
桜は,ただ其処にずっと立っているだけであるのに。
人の想いとは,斯くも移ろいやすく,いい加減で,馬鹿馬鹿しいものである。
そして同時に,微笑ましく,時に愚直なほど一途であり,よって愛おしい。
私はそんな愚かで愛おしい,ある一つの想いを知っている。
春の陽気に中てられたついでに,ひとつ語ってみせようか。
毎年,満開の桜が散ろうとする頃になると,彼は決まってある情景を思い浮かべる。
幾年も前の,幼稚園の入園式の時のことである。
彼はその日,特別な出会いをした。
人と人との出会いに特別はない。
何故特別なのかと問う由もない。
出会いに特別という意味を与えるのは,出会いを為した人自身であるからだ。
ならば彼はその日の出会いに特別という印を与えたということであろう。
そしてそれは,出会ったその日に与えられたものではなく,後々彼が己の記憶を遡って価値づけたものである。
彼はその日のことを鮮明に覚えているわけではない。
そもそも,それは彼が物心ついたか否かという頃である。
ただ彼の記憶を支配する情景に,桜の花が加わっていることは確かであった。
ああ,もう風が吹き始めている。
この花が全て散ってしまう前に,その日の記憶を貴方に伝えておくことにしよう。
彼は今よりもっと,小さき存在であった。
この世に生を受けてまだ数年の,か弱き身体と無垢な魂を持った,小さくも愛おしき存在であった。
母の手を必死につかみ,これから訪れるであろう様々な新しきことに対して,少しばかりの好奇心と,それに勝る不安を抱えていた。
園庭にはたくさんの桜が植わっており,その日は見頃をわずかに過ぎたころであった。
温かく心地よいそよ風が,首を垂らした枝を揺らし,そのたび花弁を奪っていく。
辺りに漂う良い香りに,彼は小さな鼻を膨らませた。
こんなに良い天気は,父と母とともに,「おさんぽ」に出かけたくなる。
しかしその日は,彼が望んだような「おさんぽ」ではなかった。
彼の身を包む真新しい洋服と,少々ぶかぶかしている帽子,肩から吊るした鞄。
それらのぎこちない肌触りのせいで,彼は落ち着けずにいた。
ぎゅっと手に力を込めたまま,はるか頭上にある母の顔を見る。
彼はこれから自分は一人になるのかどうか知りたかった。
尤も彼は既に感づいていた。
母の手を離れ,己が全く知る人のいない世界に放り込まれつつあるということを。
だからこそ,その予感を否定してほしくて彼が縋った母の手は,しかしついに離された。
右も左も似たような子どもたちが屯する中,彼の両足は竦む。
やがて,やけに愛想のいい若い女性(せんせい,という存在らしかった)に連れられ「きょうしつ」という部屋へ案内されようとしたときのことだった。
一際大きな桜の木の下から,ひどく大きな,甲高い泣き声が聞こえてきたのである。
それは,彼の内にあった不安も何もかも吹き飛ばす程の,大きく悲しげな泣き声であった。
好奇心に駆られ振り返ると,一人の女の子がその泣き声の主であることがわかった。
母親らしき女性の袖に必死に縋り,行きたくない行きたくないと繰り返している。
別の「せんせい」によって宥められているにも関わらず,それはもう盛大な泣きっぷりである。
彼は思わず近寄って,しげしげとその顔を覗き込んだ。
少女は両の瞳から,大粒の涙を流している。
声はとぎれとぎれに,しかし止むことはなく,時折しゃくり上げながら続いている。
「だいじょうぶ?」
彼はそう,声をかけた。
声の主はそっと視線を彼に向けた。
少女が放つ頼りなげな視線を受けて,何故だか彼は急に思い立つ。
まもりたい。
と。
彼の小さな手が,そっと少女の肩に乗せられた。
視線だけでなく,顔も上げた少女に向って,彼はにっこりと笑いかける。
そしてそのまま,ぽんぽんと優しく肩をたたいた。
それはいつも,彼が泣きやまないでいる時に母がする仕草であった。
「いっしょにいこうよ」
彼は優しく話しかける。
「……」
「いっしょにいたら,だいじょうぶに,なるよ」
少女の瞳から溢れていた大粒の涙が一筋,つう,と流れた。
「いっしょに,いく?」
少女はじっと彼を見つめたのち,小さな声で「うん」と言った。
「じゃあ,いっしょにいるからね。だいじょうぶになろうね」
彼は肩をたたき続けながら,ゆっくりと伝える。
少女はいつしか泣き止んでいた。
このこには,ぼくがついててあげなくちゃ。
だって,いっしょにいたらだいじょうぶだって,そういったんだから。
ぼくがまもるんだって,そうきめたんだから。
泣き虫と周囲にからかわれるようになったその少女を,以来彼は護ってきた。
それはもう,愚直なほど一途に。
少女の身に降りかかる様々な「厭なこと」を,彼は全力で排除し,庇い,護ってきたのである。
それは別に誰かから頼まれたわけでもない。
義務でも,勿論,ない。
しかし,彼がそうしたいと思っている以上,我々に指図することは出来ない。
そして季節は幾度も巡る。
彼とその少女は,今年も仲良く並んで桜並木の下を通り過ぎていく。
あの日の彼の言葉通り,いっしょに。
桜の季節がくるたびに,彼はあの出会いに意味を重ねる。
そして彼の想いはただひたすらに積もり積もって満ちて行くのである。
まもりたい。
と。
彼がその日の出会いに,特別な意味を見出した理由はわからない。
恋の意味を問うことなど,甚だ愚問である。
それにしても,盛大に咲き誇ったこの桜の,散った花弁はどこへ行くのか。
道端に積もり,ただただ朽ちて行くだけなのであろうか。
ではこの切なさは何としょう。
やあやあ,最早花も散り去ったようだ。
わたしの戯言もここまでにしよう。
願わくば,貴方も愚直で愛おしい想いを抱かれますよう。
人は,誰かを想ってこそ,人で在るのでしょうから。
ではまた,桜の花が開く季節に。
<< END >>
タイトルをはじめに決めたのちに書いていったら,こんな話になりました。
タイトルの由来は,名作から拝借いたしました。
私もまた,「桜」に特別な意味を求めてしまいます。