back to MAIN  >>  ss top
煙草

高校時代から通いなれた喫茶店は、目立っておしゃれという訳でもなく、
店内の内装もありふれたものだ。
観葉植物がところどころに配置され、古いジャズなんかが流れている。
BGMに、マスターがケトルから沸騰した湯を注ぐ音が混じる。

マスターは物静かな人だ。
客も常連客が多い。
自分のような若い世代の人間は、駅前にちらほら増え始めたカフェに通うことが多いのだろう。

でもここは自分に合っている、と日向仁は思う。
仁はコーヒーを一口すすり、ジャンパーのポケットから煙草を取り出した。
ライターで火をつけ、ゆっくりと吸い込む。
手元の煙草からゆらゆらと紫煙が立ち上った。

昔は苦くて嫌いだったコーヒーも、今は自分にとって必要なものになっている。
朝起きて、ホットコーヒーを飲まないと、一日が始まったような気がしない。
そして、煙草もまたそうだ。
仕事の休憩中、食事の後、こうして落ち着く時間。
もう一本吸おうかと思って箱に手を伸ばそうとしたとき、店のドアに取り付けられたベルが音をたてた。



振り返ると、待っていた人が来た。
その人は、きょろきょろと店内を見回して、仁の姿を認めると笑顔になった。
「仁!」
そう自分の名を呼んで、小走りで席に近づいてくる。
「おう」
「ごめんね、待った?」
「いや、そんなことないぜ」
「そう?良かった。」
彼女はソファーに座ると、マスターの方に向ってコーヒーを注文した。


「あ、仁ったらまた煙草吸って」
彼女はテーブルの上に乗った箱に目をやる。
「いいじゃねえかよ。これくらい」
「もう…。ほどほどにしないと。体に良くないんだから」
「はいはい。わーってるよ」


「仁、今日はお店の方に出なくてもいいの?」
コーヒーにフレッシュを入れ、ティースプーンでくるくるとかき混ぜながら、彼女が聞いた。
「ああ。タイダーが出てくれてるから。」
「そう。」
「お前の方はどうなんだ?仕事」
彼女はこの春、大学の教育学部を卒業し、晴れて地元の小学校教師として働き始めた。
「そうね…。毎日色んなことがあるけど、楽しいわ。」
「生徒とはうまくやってるのか?」
「ええ。まあ、いたずらっ子もいるけどね」
「悪ガキなんかに負けるようなお前じゃないだろ」
そう言うと、彼女はくくく、と笑った。

「なんだよ?」
「ん?昔の仁に比べたら、その子だってまだまだ可愛い方よ」
「あ〜?」
「小学校の時の仁ったら、宿題は忘れる、遅刻の常習犯、落ち着きがなくて相当の問題児だったじゃない。
 あたし、改めて篠田先生を尊敬するわ。」
「なんだよ、失礼な」
「うふふ。でも本当の事じゃない」
そう言われると、確かにそうだ。
「なんだよ。大分昔のことなんだからさ。もういいだろ」
今日は格好よく決めるつもりで来たのに、調子が崩れてしまう。



「それで?話ってなに?」
「ん?…ああ…」
彼女が急にこちらをじっと見つめるので、どきっとしてしまった。
小学校か…。
あのころから、もう大分たったが、彼女の瞳の輝きは変わっていない。
「何よ、口ごもっちゃって。あ、もしかして、何か都合の悪いことでもあった?」
いたずらっぽそうな表情を浮かべて、彼女は聞く。
「そんなんじゃねえよ…」
「変な仁」
首をすくめて、彼女はコーヒーをすすった。


変な沈黙が流れた。
自分でも、今日はどうかしてるとわかっている。
次第に高まってくる緊張感を打ち消そうと、仁は口を開いた。

「あのさ…、実は俺、貯金しててさ」
「へえ。あんたって、結構堅実なところもあったのね」
「茶化すなよ。それでさ、ようやく200万円溜まったんだ」
そう言うと、彼女は目を丸くした。
「ええ〜?すごいじゃない。いつの間に…」
「俺だってやるときゃやるんだぜ。見くびってもらっちゃあ困る」
「ごめんごめん。それで?」
「ああ…それで…その…」
「?」


ゴクンと、唾を飲み込む。
目の前の彼女の眼を、しっかり見据えて。
「お、俺と結婚してくれ。」
と、言った。



彼女は、ポカンとしている。
カランカラン、と音がして、誰か新しい客が店に入って来たのがわかった。
自分と彼女だけ、一瞬時間が止まったかのようだった。


彼女の口からようやく言葉が発せられる。
「……え?」
「だ、だから、俺と結婚してくれって言ってんだよ」
「…はあ…」
なんだよ、こいつ。俺が一世一代のプロポーズをしたっていうのに。
「……」
彼女はまだ何が起こったのか把握できていないような顔をしている。
「そ、その。お前が就職したばっかりで、こんなこと急に言っちまってビックリするのもわかるけど…。
 なんとか言ってくれよ!」
そう言うと、彼女は
「う、うん…。何か、本当にびっくりしちゃって…」
と呟いた。
「そ、それで…、お前はどう思うんだよ」
試験の結果を待つような、いや、それ以上の緊張感で心臓が壊れそうだった。



彼女は顔を真っ赤にすると、小さな声で、「ずるい」と言った。
「え?」
「…するいわ、仁。こんな、唐突にそんなこと…」
「…マリア…」
「だってそうでしょ。プ、プロポーズするんだったら、もっとこう…あらたまった感じで…」
「しょ、しょうがねえだろ。俺はそんな柄じゃねえんだから…」
「もう!あんたっていつもそう!」
「それで、お前の答えを教えてくれよ」
「……」
聞きとれない小さな声で、彼女はぼそっと呟いた。
「なんだって?」
「…だから…、あ、あたしが仁のプロポーズを、こ、断るわけないでしょ!」
「…本当か!?」
「あ、当たり前でしょ!」
そう言うと、彼女は真っ赤な顔をしてプイっとそっぽを向く。


「よ、良かった…」
つい、声に出てしまった。
「仁…」
体中の力が一気に抜けてしまったかのようだ。
へなへなと、ソファーの背にもたれる。
「うあー緊張した…」
そう呟くと、彼女がぷっと吹き出した。
「な、なんだよ、笑うなよ…」
声に力が入らない。
彼女はくすくすと笑っている。
どうも、格好がつかない。


テーブルの上の煙草に手を伸ばす。
一本取り出し、火を点ける。
煙を吸いこんでいると、彼女がようやくくすくす笑いをやめて、
「もう、また煙草吸って…」
と言う。
「大丈夫だよ、煙はかけないようにするから」
そう言って、横を向いて煙を吐き出す。
その様子を見ながら、彼女がぽつりと言った。
「ほどほどにしてよね。…あたしより、絶対長生きしてくれなきゃ嫌なんだから。」


<< END >>
back to MAIN  >>  ss top
仁とマリア、22歳の頃の話です。
この二人の結婚は早そう。
仁は、実家の酒屋を継いでバリバリ頑張っている設定です。
仁って、男としてのけじめや筋をちゃんと通さないといけない、と考えているイメージがあります。