つうん、
あたしはさっきから,めまぐるしく変わっていく窓の外をぼんやりと眺めていた。
高架を走る道路から見降ろすと,遠くの民家の屋根やら電柱やらが密集した景色はゆっくりと,手前のビル群はやたらはやく通り過ぎて行って,それは当たり前のことなんだけど,あたしはそれを初めて見るもののように珍しく感じた。
ミニチュアの町並みは,やけに嘘っぽい。
それらを眼の端に捉えることもしないまま,そんなことを思う。
この車の後部座席に座った時から,あたしはぼんやりと,でもずっしりと重量感を持った「つうん」とした感覚を手放せないでいる。
子どものころ,家族で遠出した時に感じた妙な疎外感と,それは似ていた。
周りの物が全てTV画面の中に納まっているような,現実感から浮遊したような気がする。
現実には,あたしを載せたこのレンタカーは,時速80kmを超えてゆうゆうと高速道路を突っ走っているというのに。
「クッキー,寝ちゃったかな?」
右耳に,柔らかでいて張りのある声が届いて,こちらを振り返る気配がした。
あたしは慌てて眼を閉じる。
タッチの差で,気づかれてなければ良いと思った。
「そいえば,さっきから静かだな」
低い声がそれに応える。
「昨日も遅くまで仕事だったんだって。今朝も早かったし,あんまり寝てなかったんじゃないかしら」
「ま,休憩入る時に起こせばいいだろ。そっとしといてやれよ」
「そうね」
マリアちゃんがそう答えて,スピーカーのボリュームがそっと下げられた。
車内には今,FMの番組(さっきまで今週のヒットチャートがランキング形式で発表されていた)がかかっている。
あたしはこのまままどろむことに決めた。
3連休の開始日である今日,あたしたちは東京を目指してひた走ってるところ。
渋滞を見越して早朝に出発したためか,ここまでは順調に走っている。
多分海老名あたりで混むだろうから,それも計算に入れればお昼前までには到着するだろう。
あたしは瞼越しに日射しを感じながら,はやく到着しないかなと思う。
昔だったら,一旦眠ってしまえば,目的地はすぐだった。
到着した後起こされて,だからあたしにとって通過地点などまったく関係ないものだったのだ。
あたしはドライブが苦手。
遠出なんかもっとも不得意なんだ。
車酔いをするから,というよりは,後部座席で感じる疎外感に耐えられないというのが本当のところだろう。
自分の隣に誰もいないというこんな状況は特に。
あたしはもう大人なので,勿論そんなことは口に出さない。
本当だったら2人で仲良くドライブしたいところであろう,マリアちゃんと仁君の心遣いを無下にしたくなかったし。
忙しい中休みを取って,こうしてドライバーまで買って出てくれた仁君は,見事な運転技術を見せてくれている。
見た目にそぐわず,仁君の運転は丁寧で,安心できる。ブレーキとか,急に踏んだりしないし。
運動神経の良さって,こういうところにも表れるんだろうか。
(あたしも一応,免許所持者なんだ,これでも。しかもMTで一発合格だったんだから。でもだれもあたしの運転を信用してくれないのは何でだろう?)
ハンドルを握る大きな手は,ごつくて骨ばっていて,大人の男のひとのものだった。
なんだか変な感じがした。仁君が,大人の男のひと,なんて。
仁君も,彼の相思相愛の恋人で,あたしの親友でもあるマリアちゃんも,小学校以来の幼馴染だ。
こうして二十歳を過ぎた現在でも,普段から仲良くしている。
あたしが就職してから,さすがに以前のようにしょっちゅう会うというわけではなくなったけど,大学の授業終わりのマリアちゃんと買い物に行ったり,偶にだけど2人のデートに誘われたりする
(あたしはそれはどうかと思うんだけど,二人がそういうことをちっとも気にしてなくて,むしろ是非に,って食い下がるものだから,あたしはありがたくその厚意にあやかってるというわけだ)。
だけど,だからといってあたしは2人のことを何でも知っているというわけではない。
仁君のハンドル捌きの上手さとか,大きな手とか。
マリアちゃんが仁君に接するときに見せる柔らかな眼差しとか。
どきどきする。
不覚にも。
知らなかったことを知ってしまうということに。
二人の些細な遣り取りから,あたしが何に気づいて何を見落としているのか,二人がそれに気づかないことに。
あたしの前で,二人は決してべたべたしたりしない。
子どものころの想い出そのままに,軽口をたたき合ったりする。
恋人同士としてではなくて,あくまで幼馴染の仲間同士,といった体で。
でもそれが却ってどきどきする。
表面には出てこない,細やかな何か。決して甘くない軽口の応酬の中に隠された,暗号のような何か。
例を出そうか。
早朝に出たために,朝ごはんを揃って食べてこなかったあたしたちは,高速に乗る前にドライブスルーに寄った。
寒い朝に似つかわしくない,やけにトーンの高い店員の「ご注文をどうぞ」の声を受けて,仁君はあたしの方を振り返る。
「クッキー,何にする?」
その店はどうやら朝のセットを置いていなかったようで,あたしはどれにしようか逡巡した。
「じゃあオレは…,てりやきセットで。飲み物はホットコーヒー。」
あたしが迷っている間に,仁君は自分の注文を言う。
マリアちゃんが決める間に選ばなきゃ,と,あたしが焦っているのをよそに,仁君はそのまま,
「チキンサンドとホットコーヒー,それぞれ単品で。」
と注文してしまった。マリアちゃんには何も聞かないままで。
そしてそのまま,またあたしの方を振り返ってどうする?と促した。
「えと…じゃあチーズバーガーのセットで…,ジンジャーエール。」
焦ったあたしは目についたままを声に出した。
受け取るまでの時間,あたしはやっぱり暖かい飲み物にすればよかったかな,とか,チキンサンドでも良かったな,とかぐじぐじ後悔した。
「ほいよ」
紙袋を受け取り,代金を支払った仁君はマリアちゃんにそれらを手渡す。
「よ〜し,では出発!」
冷気が差し込む運転席の窓を閉めて,仁君は明るい声を出した。
マリアちゃんは紙袋からごそごそと中身を取り出し,あたしの分をちゃんと袋に入れなおして渡してくれた。
「…ありがと」
2人の間に置かれた揃いの紙コップから,濃いコーヒーの匂いが立ち上る。
マリアちゃんは自分のことよりも先に,仁君の食べ物を用意する。
包み紙を丁寧に向いて,持ちやすいようにして。
赤信号で止まるときとかに,さっとそれを仁君に差しだして。
仁君はそれに小さく「サンキュ」と言って受け取って。
別に大したことじゃないんだけど,あたしはそれをぼんやり眺めながら,チーズバーガーを頬張った。
…ジンジャーエールはすっごく冷たくて,喉をぴりぴりと刺激した。
あたしはやっぱり温かい飲み物にすればよかったと,思った。
あたしは仁君がマリアちゃんに確認しないままで注文したことについて,何も問わなかった。
…野暮だろうと思ったので。
多分,いつも2人でいるときだって,そうしてるに違いないんだろう。
マリアちゃんの選ぶメニュー。
2人の中での,了解事項。
まどろもうと決めて目を閉じたのに,そんなことを思っていたら何故か胸がどきどきしてきた。
斜め前方から伝わってくる,普段を装った二人の「いつもの」雰囲気を感じ取ろうとして,神経が研ぎ澄まされていく気がする。
ああ,そして,またこの「つうん」。
早く東京につかないかな。
そして,はやく会いたい。
ひろしくんの笑顔を見たら,あたしのこの「つうん」という感覚もすっと引いていくだろう。
あたしの名を呼ぶ,あの声を聞いただけで,
あたしはきっとすぐに,
子どもみたいに,
安心してしまうんだ…
「…クッキー,ぐっすり眠ってる」
「やっぱり疲れてるんだな。大変そうだよな,保育士の仕事って」
「…私にはあんまり悩みを話してくれないから,わからなかったけど…」
「お前はお前の出来ることをしてあげればいいんじゃね? それにクッキーが辛かったら…」
「辛かったら,ひろし君が黙っちゃいないわよね」
「そうそう」
少しだけ寂しそうに微笑んで,マリアが,
「きっと,あたしたちが知らないクッキーを,ひろし君はたくさん知ってるんだわ」
と呟いた。
***
夢を見ました。
「梅の花が満開だよ」
ひろしくんはそう言って,これ以上ないってくらいに嬉しそうに,にこにことあたしに微笑みかけてくれました。
その言葉が終わるや否や,辺り一面に真紅の梅の花が咲き乱れていました。
それはもう,あっという間の出来事でした。
あたしはすっごく嬉しくなって,でも同時に照れくさくなってちょっと目を逸らしました。
とっても綺麗,とあたしが呟くと,ひろしくんは寂しそうに笑って,
「でもすぐに散っちゃうんだ」
と言いました。
その言葉が途切れる前に,はらはらと梅の花びらが舞い散りました。
「ほらね。もう散っちゃった」
あたしは凄く残念な気持ちになりました。
「惜しむなら,愛でちゃいけないんだよ」
そう告げるひろしくんの瞳は悲しそうでした。
「花は,いつか散るものなんだ」
「そうだけど」
あたしはすっかり悲しくなりました。
俯くと,涙がぽろぽろ流れでてきました。
「どうしたらいいの」
「泣かないで,クッキー」
ひろしくんはまた優しく微笑みました。
「また咲かせればいい」
「どうしたら,咲いてくれるの?」
「笑ったら」
「え?」
「君が笑ったら,また咲くよ」
ざあ,と大きな音をたてて風が吹きます。
風はうねりとなって,ひろしくんを攫いました。
あたしは名前を呼ぼうとしましたが,なぜか声が出ません。
ひろしくんの姿は,消えてしまいました。
***
「クッキー!休憩するけど,どうする?」
マリアちゃんにそう言われて起きた時,あたしは一瞬ここがどこだったかを思い出せなかった。
窓の外を見ると,どこかのパーキングエリアで,ほぼ真上に上った太陽が駐車場を照らしている。
どうやら,まどろもうと決めて…しばらく経ってからあたしは本当に眠ってしまったようだ。
目の端を擦って,固まった首を解そうとしているあたしに向って,仁君が笑いかける。
「よく寝てたな。少しは疲れがとれた?」
「う うん…」
変な夢を見たせいなのか,まだ頭がぼーっとしている。
ドアを開けて外へ出ると,冷たい空気があたしの体を包む。
思わず,ぶるっと震えた。
まだ,春は来ない。
お手洗いを済ませてから,自販機の前に居たマリアちゃんの方へ駆け寄った。
「仁君は?」
「タバコだって」
マリアちゃんが指さした方向には,野外の喫煙所があって,つんつんと跳ねた黒髪を持つ後ろ姿が見えた。
「飲み物でも買う?」
「そうね」
マリアちゃんの綺麗な白い指が,ホットコーヒーを示すボタンを軽やかに押す。
仁君用のものだろう,先ほどとは違う種類の,でもやっぱりホットコーヒーを買って,マリアちゃんがあたしの方を向いた。
「だいじょうぶ?」
「え?」
マリアちゃんは,コートのポケットに缶を仕舞うと,
「なんだか,今朝から元気なかったから。仕事で,無理して疲れてるのかな,って思って」
と続けた。
「ううん。そんなことないよ」
「本当?」
「うん。今朝は早起きしたからうっかり眠っちゃっただけ。ごめんね,二人とも起きてるのに自分だけ…」
「いいのよ。気にしないで」
マリアちゃんはふわりと微笑んで,「でも何かあったら言ってね」と言う。
あたしって,本当にダメだ。また心配かけちゃった…。
タバコを吸い終えた仁君が,こちらへ向かって手を振るので,あたしたちの話はそこでお終いになった。
「ぃよーっしゃ!あと少し!」
仁君は嬉しそうにそう言って,エンジンキーを回した。
「お姫様,もう少しの辛抱ですぞ」
振り返ってにやりと笑ってそう言う仁君の隣で,
「そうですぞ。もうすぐ王子様にお会いになれます」
と,マリアちゃんまであたしをからかってくる。
もう,二人して。
あたしはぶうと一瞬膨れ顔になったけど,
「さようか。では参るとしようぞ!」
と笑って返してやった。
南瓜の馬車なんか目じゃないくらいの速さで,あたしたちは再び高速を走り出した。
ポケットから,さっき買ったミルクティ(ちゃんと,暖かいやつ)を出して,プルトップを空ける。
一口飲んだら,冷えた身体が生き返るような心持ちになる。
ラジオのFMでかかるポップミュージックに合わせて,マリアちゃんが小さくハミングするのを聞きながら,あたしはさっきまでの「つうん」が嘘のように無くなってることに気づく。
ぎゅう,と缶を握る。じんわりと,両手が熱くなる。
あたしは一秒ごとに,ひろしくんに近づいていく。
会ったら,何を話そうか。
窓越しに,梅の木を見た。
すぐさま通り抜けてしまったから,咲き始めていたかどうかはわからない。
春は,姿を見せているのだろうか?
東京に着いたら,ひろしくんと散歩をしよう。
きっといつものように,ひろしくんは空気の匂いを胸一杯に吸い込むに違いない。
もしかしたら,そこには梅が咲いているかもしれない。
その一瞬一瞬が,一秒ごとに思い出となって,あたしと彼の間に蓄積されていくのなら,
あたしはその思い出を花びらに変えて食べてしまおうと思います。
<< END >>
21歳くらいの,クッキーたちのお話です。
設定としては,ひろしの住む東京へ,休みを使って3人で遊びに行く…というものでした。
(しかし,本文中で説明しきれませんでした…無念)
クッキーから見た,恋人同士としての仁とマリア,を描きたかったのですが…。
ちょっと散漫になっちゃいました。
読んでくださった方,感謝です。