網戸越しに,アブラゼミのじいじいと鳴く音がしていた。
夕方と呼ぶにはちょっと日が高くて,しかし日盛りと言うには遅くて。
室内では首振り扇風機が控えめな音を出している。
昼食を済ませ,数学の問題をしばらく解いたのち,ひろしはクッキーの変化に気が付いた。
ノートに文字を記していた鉛筆の動きが徐々に鈍くなっている。
そのうち象形文字になりそうだな,と思いながら眺めていると,それでも必死に眠気に抗おうとする彼女が可愛く思え,同時に可哀想になった。
見かねて,ちょっと休憩しようと声をかけると,薄くくぐもった声で,うん。と聞こえた。
眠気覚ましに飲み物でも,と思い,クッキーを残して階下に降りる。
クッキーの母親は出掛けていて(昼食の時にそう言い置かれた。おやつは冷蔵庫の中ね,とも),だからひろしが準備をする。
この家のキッチンの,どこに何があるかということは,既にひろしの熟知するところだ。
冷蔵庫に用意されていた手作りのゼリー(彼女の母親はこういうものを作るのが上手だ)と,冷えた紅茶をコップに注いで,盆に乗せる。
部屋に戻ると,クッキーがベッドの端にもたれて眠っていた。
…よっぽど眠かったんだな。
もともと数学があまり好きではないクッキーには,退屈な時間だったのだろうか。
ひろしが入ってきたことにも気づかず,ぐっすりと眠っている。
ひろしは,そんな彼女の姿をそっと眺めた。
扇風機の勢いを弱に切り替え,ひろしは音をたてないようにして彼女のそばに座り込む。
軽く薄い素材でできた,パステルカラーのワンピース。
少しだけ火照った白い頬。
わずかな風に揺れる髪の毛。
(クッキーの髪,さらさらだなあ)
(近くで見ても,やっぱり目が大きいな)
(睫毛も,長い)
幼馴染である二人は,それこそ物心がつくか否かという頃から一緒に居る。
小さい頃は,よく二人で昼寝をしたものだ。
だから彼女の寝顔など,何度も見ている筈だった。
ひろしはクッキーの寝顔に見とれていた。
どれほど付き合いが進んでも,きっと自分のほうが相手を思う気持ちが勝っているのだろうと思う。
自分のほうが好きの気持ちが大きすぎるのだと。
ただの幼馴染という関係から,恋人同士という関係に変わっても,付き合い方にさほど変化はない。
ひろしはいつもクッキーを護り,クッキーはそんなひろしに甘えて。
周りの皆から「まるで兄妹みたいだね」と言われても,「いつも仲良しでいいねえ」と言われても,
それだけだったらどれほど楽だったんだろう。
ただ,触れたい,と思った。
この瞬間,確かに彼女を独占したかった。
蝉がじいじいと鳴く。
しっとりと水気を帯びた暑さが,室内に充満する。
この熱気にやられたのかもしれない。
もしくは,すうすうと気持ちよさそうに眠る彼女の寝顔が可愛かったからかもしれない。
ひろしはふと手を伸ばし,クッキーの髪にそっと触れた。
指の間をさらさらとすり抜ける,細くて茶色がかった髪。
絹糸のようなしなやかさをもって,髪はひろしの手に留まることを拒否した。
(やっぱり,さらさらしてる)
ひろしの髪は張りがあり,黒く,癖がある。
きっと長く延ばしても,こんな風にさらさらとは流れないのだろう。
―僕が持っていて,彼女が持っていないもの。
彼女が持っていて,僕が持っていないもの。
小さくて華奢な身体と,大きな瞳と,無邪気な心と,さらさらな髪と。
そして僕が抱える「触れたい」という幼い欲求と。―
屈んで,優しく頬に触れて,
ひろしはそっと顔を寄せた。
思ったよりもその頬はひんやりとしていて,
小さな唇は,ただ柔らかだった。
柔らかだった。
『そして,眠り姫は,微笑んだ。』
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