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夏の魔物 >>温度

ひろしくんはおだやかに微笑んでいる。
なんだかあたしが許されているような,そんな錯覚に陥りそうだ。
でもそんな顔を見ていると,あたしはとっくに自分が怒っていないと気づかされる。
いつもは照れ屋のひろしくんが,なんだか素直に自分の感情を見せてくれてるような気がして。
それが,ちょっと…ううん,だいぶ,嬉しいと思う。

「じゃあ,僕の話も,聴いてくれるかな」
「…うん」
そんな穏やかに言われたら,意地を張ってるのが馬鹿みたいだ。

「あのとき」
「…うん」
「あのとき,ちゃんと説明できなかったけど,僕はクッキーの日記は見てない」
「……うん」
「確かに,クッキーに誤解されるような状況だったことは認めるよ。でも」
「でも?」
「誓って,僕は見てない。クッキーの大事にしてるものを,大事にしたいと思ってるから」
「……」
「だから,びっくりさせちゃったことについては,謝るよ。ごめんね」

じっと,ひろしくんの目を見た。
ひろしくんはまっすぐ,あたしを見つめ返してくる。
だったら,もう,信じるしかないじゃないか。

ベッドに背を預けて座っているひろしくんは,微笑んでいるけれど,目は真剣だった。
その眼差しの強さに負けて,あたしは目をそらす。
ひろしくんの首は,その肩幅に比べると細くて,Tシャツの襟から鎖骨が少し,見えた。

「クッキー」
そう言われて,視線を戻す。
目で問われなくても,何を求められてるのか,もうわかっている。
そして,ひろしくんは,とっくにあたしの答えを知っているのだ。
「…わかった。」
それでもあえて低い声でそう言うと,ひろしくんが目だけで笑って見せた。
意地っ張り。
ひろしくんがそう考えてることくらい,わかるんだから。


「じゃあこれもちゃんと教えて」
「ん?」
「あたし,日記帳は確か勉強机の上に置いてたよね?なんで落ちたの?」
「…ああ…」
「あのとき,うたたねしちゃったあたしも悪かったけど…,起こしてくれればよかったのに」
―そう,あのとき,あたしは日記帳が落ちる音で目が覚めたんだった。
「あれは…」
「あれは?」
ひろしくんはちょっと困った風に,言い淀んでいる。
形勢逆転の兆し有り,だ。

「あれは,僕が勉強机にぶつかったからなんだ…。その,びっくりして身を引いたから…」
「びっくり?なんで?」
「なんでって言われても…」
ひろしくんの目線が宙を泳いでいる。
あたしは今度は引かないことに決めた。
「どうして,びっくりしたの?」
「えっと,それは…」
「そもそも,あのとき,ひろしくん咄嗟にごめん,って言ってたじゃない。なんで言ったの?見てないんでしょ?」
「あ〜,だから,あのときのごめんは,びっくりさせちゃったことに対して…」
「え?でもびっくりしたのはひろしくんでしょ?」
「や,あの,そうだけど」
「なに?わけわかんない」

あたしは頭の中で整理する。

ひろしくんがゴメンと言った。
→あたしが目を覚ました
→日記帳が落ちた
→ひろしくんは机にぶつかった
→ひろしくんはびっくりした
→何に?

「そうよ。大体ひろしくんは何にびっくりしたの?」
「それは,クッキーの目が覚めたから」
尋ねたあたしの勢いに乗せられてか,ひろしくんが矢継ぎ早に答えた。
…あたしの目が覚めた?
あたし,音がしたから目が覚めたんじゃなかったっけ?
……どうも腑に落ちない。

「ほんとに〜?」
そう言いながら詰め寄ると,ひろしくんの顔が真っ赤に染まっている。
「クッキー,近い,近い…」
そんな言い逃れは許しません。

あたしは構わず,ひろしくんの顔を覗き込む。
「あたし,目が覚めたの,音がしたからだよ?」
「ちがうよ,…いや,ちがわないかな。ん?でも…」
「ひろしくん!」
「あ〜,もう,でもあのとき僕は,クッキーが起きたと思ったんだよ!だって笑ったし!」
…笑った?あたしが?

なんだか眠ってるときににやにや笑ってる人間みたいで,それはなんだか気持ち悪い。
頭の隅でそんなことを思いながら,あたふたしているひろしくんを見つめた。
「それはそうと,ひろしくんあたしの寝顔見てたんだ…。」
「あ えっと その」
「ヒドイ…」
「ク,クッキー…」
「どうせ涎垂らしてたとか,にやにや笑ってたとか,そんなこと言うんでしょ!どーせあたしは子どもっぽいわよ!」
「クッキー,違う,違う!落ち着いて…!」
ひろしくんは真っ赤な顔をしながら,あたしの両肩に手を置いた。
泣いてるわけでもないのに,あやすように,ぽんぽんと叩く。

「わかった…ちゃんと説明するから…」
「ん」
「その…怒らないで聞いて」
「…場合によるわ」
「クッキー…」
「怒られるようなこと,したの?」
「……」
思わずひろしくんを睨みつけると,そんな顔しないでくれよ,と言いながら,ひろしくんは肩に置いた手を離して,
あたしの頬に触れた。

ひどく,優しく。


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