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夏の魔物 >>氷

少し眠っていたらしい。
階下で音がして目が覚め,僕はぼおっと天井を睨んだ。
休息と言う名の下であっても,夏の午睡はただただ無為に思えてしまう。
自分では大丈夫だと思っているのだが,母親は顔色が悪いと言って聴かない。

扇風機の風を強くしようと思い立って,体を起したときだった。
ドアが開いて,振り返ると,
彼女が立っていた。


「…クッキー」
「大丈夫なの?」
「…大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」

鸚鵡返しにそう言うと,彼女はちょっとだけ安心した顔をした。
手に麦わら帽子を握りしめたままで。
頬っぺたがまるで林檎のように真っ赤に染まっていて。

「…心配させちゃったかな」
「…マリアちゃんが,電話をくれて」
「…仁か」
「そう」
あいつらにはいつも面倒を掛けてしまって,悪いな。
そう思いながら,ベッドを出る。

とんとんと,扉がノックされて母さんが顔を出した。
「わざわざすまなかったわねえ。はい,どうぞ」
「あ ありがとう,おばちゃん」
「ほら座って頂戴。ひろし,あんたちゃんとお礼を言ったの?」
「…これから言うよ…」
母さんは,やあねえ無愛想な息子って,とぼやきながら,麦茶の入った容器とコップを机に置いた。
「この子ずっと寝てるから呆けちゃってるのよ,容子ちゃんゆっくり相手してあげてね」
「はあい」
実の息子に向かって何て云い草だと思いながら,麦茶を注ぐべく手を伸ばすと,クッキーが自分でやるよと言い出す。
それを母さんが,いいのよそれくらいさせてやって,そうだわ容子ちゃん夕飯食べてかない,などと喋りだす。
いつも繰り返される光景だ。

それでも何とかかんとか言いながら,母さんが店番をしに階下へ降りて行くと,部屋の中に沈黙が流れた。

「おばちゃんは,いつも元気だね」
「母さんは,ああいう人だから。夕飯,気にしないでいいからね」
「うん…」

クッキーはベッドの前にちょこんと座っている。
「それで」
「え?」
「それで,あの,来てくれてありがとう」
「……どういたしまして」
ぶうーと扇風機の音がする。
簾越しに蝉の声が聞こえて,僕はあのときと似てるな,と思った。
クッキーは落ち着いているようにみえる(多少,意識しているようだったけど)。

「その服」
「ん?」
「クッキーが着てるその服,こないだもそうだったね」
一週間前か。と続けると,クッキーはふわりと笑って,そうだったかな,と呟いた。
「うん。そうだったよ。良く似合ってるなって思ったから覚えてる」
まるで一枚の写真のように。良く描かれた精密画のように。

「…一週間」
「ひろしくん?」
「クッキーは,一週間,ずっと怒ってたの?」
そう聞くと,クッキーはぷうと頬っぺたを膨らませた。
「…怒ってたよ」
「僕は,」
「?」
「僕は,…会いたかったよ」
「……」
コップの氷が,からんと音を立てた。

「まだ,怒ってる?」
「…怒って…るもん…」
「そっか」
なんだか笑えてきた。
ここまできて,まだ怒ってるんだもんな。
クッキーは僕が頑固だって言うけれど,クッキーだって相当の頑固者だよ。

「でも,来てくれた」
「…だって…」
「来てくれて,ありがとう」
もう一度,そう言った。心からの,気持ちだった。


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