このごろ,午後になると娘に言いつけることがある。
庭のテラスと,玄関先の道路に打ち水をすることだ。
こうしておくと,多少でも涼しくなる。
冷え症の彼女は冷房が苦手で,日中,窓を開けて網戸を引いておく。
水を捲いておくと,表から入ってくる風が冷気を帯びて涼しいからだ。
窓越しにパシャリ,パシャリと音がして,娘がちゃんと水を捲いてくれていることを知る。
水音に交じって,窓際に吊るした風鈴の音が響いた。
昔の人は,本当に涼しくなるコツというものを知っていたものだわ。
そんなことを思いつつ,表から戻ってくる娘のために,彼女は冷えた紅茶を作りはじめた。
不意に電話の呼び出し音がする。
手元を一旦休めて,リビングにある電話機のもとへ向かう。
「はいはい〜ちょっとまってね〜」
そんな独り言を,つい口走ってしまいながら。
「ふう」
一息ついて,クッキーは腰を伸ばした。
バケツに汲んだ水はあらかた捲き終えてしまった。
これでまあ,OKよね。
麦わら帽子越しに,強い日差しを感じ,クッキーは目蓋を閉じる。
こうして目蓋にも日光を当てると,なんだか元気になる感じがするから不思議だ。
庭に茂る草花も,枝をぐんぐん広げる樹木も,自分も同じように日光を必要としている。
「いいお天気」
そう呟いて,ぼおっと遠くを見渡した。
もうすぐ夏休みが終わる。
休み明けのテストがちょっといやだけど,また皆の顔が見られることは楽しみだ。
ふいに自分の視線の先が,ある一定の方向で止まっていることに気づいて,クッキーはふるふると首を振った。
この先には,考えたくなくても,考えてしまう人の家がある。
「容子!」
玄関先から大きな声がして,クッキーはびくりと肩をゆらした。
「…なあにい?びっくりした〜」
「電話よ,あなたに。お友達から」
「あ,はあい」
急いで地面に置いたバケツと柄杓を持ち上げて,玄関に戻る。
三和土に立ったまま,保留音が流れる電話機を持ち上げた。
アイスティーの準備に戻り,冷蔵庫から氷を取りだしていると,電話を終えたらしい娘が駆けこんできた。
「なあにお行儀悪い。ばたばたと足音を立てないの!」
そう言いながら,「で,何だったの?」と聞く。
娘はひどくあわてた様子で,これからちょっと出かけると言う。
「出掛けるって?お友達のとこ?」
そう尋ねながら,貰いものの梨が余ってたから持っていかせようかしらと思う。
「あの,えっと…急いでるから,詳しくは後で!」
そう言い放つと,娘は再びばたばたと足音を立てて出て行った。
…あんなに急いで,まあ。
呆気にとられながら,あらやだ梨を持たせようと思ったのにあの子ったら,と思い,手元に視線を移すと,
アイスティーが入ったガラスのコップがふたつ並んでいた。
伝言ゲームのようなものだ。きっと。
どんどん話が大きくなって,まるで大事件みたいに聞こえるだけだ。
そう思うのに,足は止まらない。
電話口で,マリアは心配そうな声を出していた。
昨日,仁君が飛鳥君と吼児君と一緒にお見舞いに行ったそうだ。
―倒れたって言うし,クッキー,お見舞いに行ってあげたら?
もしかしたら,マリアちゃんたちが気を使って大袈裟に言ったのかもしれない。
クッキーがひろしと喧嘩をすると,いつもマリアは決まって心配してくれる。
心配ばかりか,仲を取り持ってくれたりも,するのだから。
だから,多分大したことじゃない筈。
そう思うのに,やっぱり足は止まってくれなくて。
薄い胸が,どきどきと早鐘を打って。
クッキーは,さっきもっとしっかりしたサンダルに履き替えてこればよかったと思った。
アスファルトの上に,まるで下駄のような大きな音が響いている。
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