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恋には興味はないけれど

聖バレンタインデー。この日,小川よしあきはこれまで騙し騙しでやってきたツケをついに払わなければならなくなった。
しくしくと痛んでいた右上の奥歯が悲鳴を上げたのである。
それは給食時のことであった…。



スプーンが激しい音を立てて床に転がった。
それから一拍置いて,よしあきの絶叫が6年3組にこだまする。
「いっっってぇぇぇぇ〜!!!」

バレンタインを考慮したのであろう,この日のデザートはチョコムースが掛かった小さなケーキであった。
いつもの通り目にもとまらぬ速さで給食の大部分を片付けたよしあきが,幾分勿体ぶった手つきでスプーンで一匙掬い,口へ運んだ直後のことである。
まず,同じ班で食べていたラブと吼児とクッキーが,吃驚して顔を上げた。
それとほとんど間を置かずに,教室中の視線がよしあきに集中する。

甘いものを食べると虫歯になりやすいとは良く言うけれど。
虫歯になった途端,甘いものを食すとき最強の痛みを伴うのはどうしてなんだ。

じくじくと痛む頬っぺたを抑えたまま蹲りながら,よしあきは頭の片隅でそんなことを思った。
「どうした?頬っぺたでも噛んだのか?」
的外れな心配をしながら篠田がよしあきへと近づいた。


よしあきの基本姿勢は「貰えるものなら何でも貰う主義」であり,「お菓子はTVとゲームと並んで大好物」である。
昨年のバレンタインでは,同クラスの女子から試作品や失敗作を有り難く頂戴していた。
よしあきにとって,バレンタインとはたなぼた式にチョコが降ってくるイベントである。
翌日がよしあきの誕生日と言うことで,義理だったとしても何人かはチョコを渡してくれる。
通常の男子であるならば,少なくないプライドが邪魔をしてお零れに与ることを良しとしないのだが,生憎とよしあきにそういった部分でのプライドは無かった。
本命チョコだったら勿論嬉しい。でも本命じゃなくても義理でも,いやもういっそ義理ですらなくても,チョコには変わりないのであるから,貰えるものは有り難く頂戴する。

そう,チョコはチョコである。
とろりと甘い極上の菓子である。
よしあきにとってチョコはそれ以上の何物でもなかった。


ということで,よしあきは今年もまた,お零れに与る姿勢を変えていない。いやむしろ,パワーアップしている。
交渉により,ポテトの試作毒見役(毒見と言うとポテトが怒るので当人には味見と言ってある)を買って出たほどである。
ポテトのチョコにかける情熱は凄まじいものがあった。
情熱だけでなく,彼女が試作するチョコの中には一般人が考え付かないような過激なアイデアが盛り込まれる。
こうした試作品をここ1月にわたりよしあきは食し続け,時にお菓子好きとして勇気を持って忌憚無き意見を奏上したのである。
よしあきの助力もあってか,ポテトはどうやら納得のいくチョコレートを完成させたらしい。
そのお礼として,よしあきは本番用に選ばれなかった残骸…,もとい失敗作を大量に受け取った。

こうして通常よりもチョコを大量に摂取し続けたことが,日頃から虫歯菌が絶えないよしあきの口内に及ぼした影響は量り知れない。
歯医者が死ぬほど嫌いなよしあきは,チクチクと痛む奥歯を極力気にしないように努めたものの,本人の意思とは裏腹に彼の歯にはいい加減限界が来ていたのである。
そして本日,給食時のチョコムースによってよしあきに耐えがたい激しい痛みが齎されたのであった。


「お家へは連絡しておいたから,帰ったらすぐに歯医者さんへ行くこと。いいわね?」
保健室で姫木は厳しい顔をして言い含める。
「うぇぇ〜やだなあ〜」
応急処置が効いたのか,先ほど感じた激しい痛みは緩和されているものの,腫れた頬が邪魔でうまく発音も出来ない。
ただでさえ丸い顔をぷくぷくと膨らませて抗議してみても,姫木は美しい眉毛を持ち上げたままよしあきから視線を外さなかった。
「こんなに酷くなるまで放っておいて。嫌でもちゃんと治療しなくちゃ駄目よ。」
「…はーい」
観念したように小さく呟くと,ようやく姫木は表情を和らげた。
「歯は一生ものなんだから。直しておかないと,大好きなご飯もお菓子も食べられなくなっちゃうわよ」
そう言われて,よしあきは明日食べる筈だった誕生日のご馳走を思い浮かべる。
…切なくて涙が出そうだった。

「歯医者さんからも注意されると思うけど,歯磨きをサボらないこと。あとは…」
「まだあるの?せんせー」
クスッと微笑んでから,姫木が小指をぴんと立てる。
「大好きだからって,お菓子ばっかり食べてちゃ駄目。好き嫌いもなるべくしないでご飯をちゃんと食べること。」
先生と約束して下さい,と言って小指をよしあきの前にずいと差し出した。
「……」
「ヨッパー」
促されて,よしあきはぷくりと太い小指を差し出した。
「よし,指きりげんまんね」
にっこり笑った姫木に向かって,小さく頷く。


姫木は指切りを終えると机に向き直り,書類に何事かを書きはじめる。
「ねえ,せんせ」
「はい?」
「せんせーは誰かにチョコあげるの?…篠田先生とか」
ポツンとそう問いかけると,姫木の背中が一瞬グラリと傾いた。
「なっ…なあに突然?」
「いや別に…なんとなく」
今日ってバレンタインデーだろ,と続けると,姫木は椅子を回転させよしあきに向かいあった。
「…ヨッパーっておませさんなのね」
「そんなことないと思うけど」
姫木の頬がほのかに赤く染まっている。
「ヨッパーもバレンタインが気になるのね」
「別に俺は気にならないよ。ただ…」
「ただ?」
「なんで皆はこんなに大騒ぎするのか不思議に思ってさ。だってせんせ,ただのチョコだよ?チョコを渡すだけなのに」
よしあきの頭の中で,ポテトの気合が入った顔や,朝からそわそわするクラスメイトの様子が浮かんでは消えていく。
「俺だってチョコは大好きだよ。だからそりゃあ貰ったら嬉しいよ。でもチョコはたかがチョコじゃんか」
姫木の視線が気になって,よしあきは俯く。上履きの先で床をきゅるりと引っ掻く。
「そんなのに色々大騒ぎして…そういうのって,よくわかんなくてさ」
足の動きに合わせて床が鈍い音を立てた。

「わからないけど,気になるのね」
穏やかな声がして,よしあきは顔を上げた。
姫木は優しい表情のまま彼を見つめている。
「……そうかなあ」
「確かにチョコはチョコよ。お菓子のひとつ。でも,今日のみんなにとっては,それだけじゃないみたいね」
……それだけじゃないらしいというのは,何となくわかる。
よしあきの考えを見透かしたように,
「みんな,チョコレートに特別な想いを込めているんじゃないかしら」
と,姫木はゆっくりと声に出した。
「特別な想い?」
「ええ。大切に思う気持ち,好きだと思う気持ち,ありがとうって気持ち」
「…ふうん」

ふうん。
よしあきには,なんとなくしかわからない。
そう言われればそうなんだろうな,という位の興味しか湧いてこなかった。

そんな考えが表情に出ていたのだろうか,姫木はふふふと笑う。
なんだかくすぐったい気持ちにさせるような,そんな声だった。
「いつかヨッパーにもわかるときが来ると思うわよ」
「そーかなー」
「ええきっと。そうそう,ヨッパーにイイことを教えてあげる」
「なに?」
「特別な想いが込められるとね,どんなお菓子もどんな料理も,もっともっと美味しくなるものなのよ」
「ええ〜?嘘だぁー」
「あらホントよ。だからね,バレンタインのチョコは,普段よりも一層甘くて美味しいの」
そう言って少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ姫木の顔を見ているうちに,どこか本当のことのように思えてきて,よしあきはちょっとだけ笑った。


姫木の言う「特別な想い」とは,どんなものなのか,よしあきにはまだよくわからない。
ただ,それは例えばよしあきがお菓子が好きだと思うようには単純なものではないらしい。

(チョコはやっぱりチョコだと思うけど)
目の前で微笑んでいる姫木があまりに可愛らしく笑うものだから,
(もしかしたらあり得るのかもしれない)


だけど俺はまだ,舌で味わう甘さだけで十分だけどね。


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