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夏の魔物 >>蝉

旧校舎の三階の突き当たり。
第三資料室という名の,その部屋は細長い形状で,天井まで届く高さの本棚が両脇を占めるため,内部は驚くほど狭い。
それ以外にも古いコピー機や印刷機が乱立し,資料が詰まった段ボールの箱が積まれていて,床には足の踏み場も見つからない程だった。
埃とカビの匂いがする,そうした古い「ガラクタ」は,部屋の鍵管理者である教諭ですらも把握していないものが多い。
しかし部屋の端―正確に言うと窓際の1畳ほどのスペース―には,少しだけ“生活感”があった。
この部屋の実質上の主である2年生の男子生徒によって,窓際の古い木製机の上には,分厚いファイルやら,旧型のパソコンやら,ビーカーや試験管,薬品の入った小瓶やら―,とにかくごちゃごちゃと様々なものが置かれている。
机に面して,これまた古い椅子が鎮座している。
分厚い,くすんだ黄色のカーテンは脇に寄せられ,窓を覆うようにして茂る樹木の枝が,丁度良い具合に厳しい日差しを遮っていた。
本棚には,古い教材や資料のファイル,校内発行誌の余剰分の他に,発行年の古い百科事典や外国の書籍が並んでいて,そのうち何冊かは抜き取られ例の机の上に置かれていた。

からからと音を立てて,引き戸が開けられた。
ひょろりとした,白衣を着た少年が,奥の机へと伸びた小さな“通路”を進む。
彼は机の前までやってくると,白衣に付いたポケット―この白衣は成人用のサイズらしく,彼には少し大きすぎた―から,紙パックのジュースを二つ,取りだした。
それを本の陰に置いてしまうと,彼は古い椅子に腰を下ろす。
腕時計を見やると,彼は落ち着かない様子で机の上の物を眺めた。
雑然としているように見えて,彼の中では秩序だって並べられた小物―実験器具や本,筆記具,パソコン,ファイル,それからジュース―が,彼の眼に映る。
無機質なものだとわかっているのに,この小物たちだってあの人を待ち焦がれてるように見えてしまう。
そんな気持ちになってしまう理由について―端的にいえば彼女の来訪を心待ちにしてしまう自分の状態について―,彼はとっくの昔に答えを見出していた。


彼は頭が良かった。
勉学に優れている,物知りである,ということだけではなくて。
目の前にある個々の情報を集積し,有機的に結びつけ,関係性を分析する。
現状を把握したのち,該当する事例を参照して,この先の事態を予測する。
様々な状況を踏まえ,結論を導き出す。
云わば,論理的に思考するということ。
彼はこの思考方法に慣れていた。
それは一重に彼の努力と,経験の賜物である。

そして彼は,世間の様々な情報からある一定の価値観を見出し,そして結論を付けた。
自分の中にある,ふわふわと浮遊しながらときに質量を持ち,コントロールすることが非常に難しい感情の正体とは何か。
そしてその感情を持つ自分自身の状況と,そこから導き出される未来の自分の状況はどのように予測できるか。
極めて論理的な思考を行った結果,残念なことにあまり心躍るような結論は見出せなかった。

しかし彼は頭が良いと共に健気な心の持ち主でもあった。
自身の望みを最小限に留め置くことによって,お互いに―少なくとも彼自身が―徹底的に傷つかないような関係性を構築することはできる。
よって,彼はジュースを購入する。
購買の自販機で,100円玉を2枚使用して。


この部屋には様々なものが置かれているが,さすがに冷蔵庫は無い。
簡易式の冷却装置を発明する必要がある,と思い,手元のノートにそのアイデアについてまとめていると,
引き戸が開けられた。


「あ れいこさん」
「お邪魔しま〜す」
元気にそう言い放った小柄な少女は,にこにこと笑いながらついさっき彼が通った「通路」を進む。
「この部屋は結構涼しいのね」
「そうですね。枝が丁度ブラインドのような役目を果たしていますから」
今日みたいに風があるとなおさら,
「あ それジュース?」
れいこは目敏く紙パックを見つけ出す。
「さっき買ってきたばかりなので,まだ冷えてますよ。ひとついかがですか?」
「ほんと?! いやぁ〜悪いなぁ〜,なんだか催促しちゃったみたいで」
「いいえ,どうぞお好きな方を」
「じゃありんごの方を頂きま〜すっ」
れいこは嬉しそうに頷くと,勉に差し出された紙パックを手に取る。
無論,れいこがりんごのジュースを好むということを踏まえたうえでの購入であった。


「部会の方は終わったのですか?」
…無論,そう予測したうえでのジュース購入である。
「そう。さっき。うかうかしてるとあっという間に新学期でしょ。新学期が始まったらすぐ文化祭が来ちゃうもの。」
「今年の劇は何をやるんですか?」
「えへへ。まだ秘密〜。でもね,きっと勉くんもびっくりするニュースがあるから,楽しみにしててね」
「それは気になりますね」
でしょ!と再びにっこり笑い,れいこはズズ,と勢い良く音を立ててストローを吸い上げる。
「楽しみに,してます」
れいこは何でも美味しそうに食べて飲む。
見ているとこちらまで嬉しくなってしまう。


じいじいじいと蝉が鳴いている。
ジュースを飲み終えてしまったらしいれいこが,窓の外を見遣って「まだまだ夏が続きそうね」と呟いた。
程良く風が吹き込むからであろう,比較的室内は涼しいが,陽が少々傾いたとは言え,校庭はまだまだ暑いに違いない。
「まったく,元気に鳴くものね」
「彼らも必死ですから」
「必死って?」

じいじいじい。
一口ジュースを飲みこんで(彼はみかんのジュースだった)喉を湿らせ,れいこに説明する。
「あれはアブラゼミですね。蝉はみな,腹で鳴くんです。腹の底から,必死にメスを呼んでるんです」
「え?鳴くのってオスだけなの?」
「ええ。あの鳴き声は求愛行動なんですよ。メスに自分の居場所を知らせるための」
「へ〜知らなかった…」
「彼らも必死で歌ってるんですよ。メスに向かって」
「それじゃあ,あれは差し詰め恋の歌ってとこね」
「ですね」
ふふっ,とれいこは笑う。
「だったら,うるさくても大目に見なきゃって気になっちゃうね」


じいじいじいと蝉が鳴く。

あれは差し詰め恋の歌ってとこね。


恋の歌だというのなら―,

あの耳を劈くような鳴き声は,好きだ好きだと唄っているのだろう。

いのちを限りに,振り絞るように。

「早く相手が見つかるといいね」
そう言って窓越しに呼び掛けて,振り返った彼女に向かって,


僕はあなたが好きだと唄って見せましょう。
好きだ好きだと,声を限りに。


しかし彼はそうですねと返しただけだった。
悲しいかな,彼は頭が良すぎたので。


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