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夏の魔物 >>逃げ水

玄関先で,クッキーの母親はすまなさそうに彼の顔を見遣った。
小柄な彼女の目線は,三和土に立ったままのひろしのそれと,大して変わらなかった。
「ごめんね。なんだか,その…調子が悪いみたいで。」
「…いえ」
「ねえ,何かあったの?」
「え…」
彼女はあごに手を乗せたまま,首を傾げる。
「数日前から,なんだか元気がなくて…。喧嘩でも,した?」
「……」
「まあ,きっとまた,あの子のわがままが原因なんだろうけど…」
「いえ,そんなことは」
「たぶんね,もうしばらくしたら元に戻るでしょう。ごめんね,ホントにあんな我儘で」
「謝らないでください。…じゃあ今日は,帰ります」
「そうお?ごめんなさいね。あの子にはよく言っとくから」
「いえ。お気遣いなく。それじゃ,失礼します」
そう言い残して,ひろしは一礼する。
扉が開いた一瞬,外部の熱気とともに蝉の鳴き声が玄関に入り込む。
まだ熱気を上げているであろうアスファルトに向かって,ひろしは足を踏み出していく。
控えめな音を立てて閉まった玄関の扉越しに,彼女は何度目かの溜息を吐いた。


どたどたどたと,階段を上る音がする。
…いつもは大人しく上がりなさいって言ってるくせに,何よ自分だって。
そう思うけれど,今クッキーが気にしているのはそこではない。
コンコンとノックの音がする。
「…どうぞ」
予想通り,不満たっぷりと言った表情で,母親がこちらを見下ろしている。
「ひろし君,帰って行ったわよ」
「…そう」
「一体何だっていうの?喧嘩でもしたの?」
「……」
「もう中学生にもなって。そんなふうに何時までも拗ねて…。いい加減にしないと,ひろし君に嫌われちゃうわよ」
「あたしが悪いんじゃないもん!」
「じゃあ何が原因なの」
「……」
「またダンマリを決め込むの?…まあ気が済むまでそうしてらっしゃい。だけどもう一度,ちゃんと考えなおしてみることね」
「…何を?」
「何を,って,そりゃあ自分の胸に手を当てて考えることよ。」
「……」
「夜にでも,電話して仲直りして頂戴。ひろし君の元気ない顔,私見てて辛かったもの」
そう言い放った母親が(彼女は気が立つといつも言いたいことだけを言って去っていく)閉めたドアに向かって,クッキーはいーっと歪めた顔を向けてやる。

大体,お母さんは,そもそも,ひろしくんの味方なんだから。
絶対私が悪い方だって,決めつけてるんだから!

そう思うと,余計に気分がむかむかしてくる。
抱きかかえたままのクッションを,力いっぱいぎゅうと抱きしめて,クッキーは込み上げてくる怒りをやり過ごそうとした。


…自分の胸に手を当てて考えることよ…


中学2年にもなったのに,いまだにぺったんこな自分の胸に手を当ててみる。
目を閉じて,深く息を吸いこんだ。

あたしが怒ってるのはなぜか?
…ひろしくんが,黙ってあたしの日記を盗み読みしてたから!

どうして仲直りしないのか?
…怒りが治まらないから!それにあたしが謝るのは筋違い!

ひろしは謝りに来てくれたようだけど?
…謝るってことは,やっぱり盗み読みしたことを悪く思ってるからじゃない!


きつく閉じていたせいか,ちかちかしてきた目蓋の裏が気になって,クッキーは目を開いた。
ほら,やっぱり考えたってあたしは悪くないじゃない!

堂々巡りになってしまう自問自答に匙を投げ,クッキーはベッドの上に倒れこんだ。

机の引き出しに仕舞いこまれたままの,日記帳。
ピンクの表紙で,大きめのクマのシール(表面が,ふかふかしているやつ)が貼ってある。
内容は,大層なことではない。
今日食べたものだの,見たTVについてだの,小遣いの使い道だの。
ただ,時々…,時々,自分の悩みや想いについて書くこともある。
勉強や将来のこと,なかなか伸びない身長のこと,部活の練習に付いていけないことへの悩み,そして,ひろしへの気持ち。
日記を付け始めたのは,中学に入ってからのことだった。
小学校の卒業前に,篠田先生に自分の書いた文章を褒められたからであった。

あれは確か,卒業文集に寄せた作文についてだったか…。
“文章はな,誰に見せようと思わなくてもいいから,毎日書き続けることに意味があるんだぞ”
“書く能力が上達するだけじゃない。いつかきっと,書き溜めて良かったと思う日が来る”
防衛組で文章が巧いといえば吼児だったが,自分にもそんな言葉がもらえたことが嬉しくて,密かに実行していたのだ。

だから。
だから…,日記帳はクッキーにとって小さな,でも大切な秘密だったのだ。

ひろしくんはそんなあたしの大切なものを,同じように大切にしてくれると思っていたのに。


“…でもさ,本当にそうだったの?ちゃんと確かめたの?…”
カキ氷をつつきながら,心配そうにそう言ったマリアの顔が浮かんだ。

……確かめたか,っていわれると…。
ベッドにうつ伏せになったまま,クッキーはあのときのことを思い出す。

あの日は部活が休みで,揃って勉強をしていた。
とっくの昔に宿題をやり終えたひろしだったが,真面目な彼は,休み明けに実施される実力テストに向けての準備をするというのだ。
苦手な数学を教えてもらって,すこし休憩しようということになって。
休憩ついでに下へ降りてお茶の準備をしに行ったひろしを待っている間に(ひろしは栗木家の台所を熟知している),ついうとうととまどろんでしまった。
そして,目を覚ましたら,ひどく慌てた様子のひろしと,ひろしが手に持った日記帳が見えたのだ。

確か,あのあとは…。
ひろしくんはとにかく焦っていて(その様子は見つかったことに慌てているようだった),
あたしはあーっと大きな声を出して(それは当然のことだと思う。一気に目が冴えた),
ひろしくんは小さくゴメン,と言って(だからやっぱり盗み見てたんだよね),
でもあたしはかーっと頭に血が上って怒鳴って(何でそんなもの見てるの?とか,信じられない,とか),
あたしはそのあと最低!って言ってひろしくんを部屋から追い出したんだ。
ひろしくんはしばらく誤解だ,とか色々言ってたけど,あたしは頑として部屋のドアを開けなかった。
そのうち諦めて,ひろしくんが帰ってしまうまで。


思い返すうち,また胸がむかむかとしてきて,クッキーはがばりと起き上がる。
乙女の日記を盗み読みするなんて!

“クッキー,簡単に許しちゃ駄目よ”
きららの一言を思い出し,クッキーはうん!とひとつ頷いた。


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