去年は,「一応」だったのだ。
美紀を見送った後,台所でマグカップを洗いながらラブはふとそう思う。
蛇口から流れる温水で,冷えた指先が次第に熱を帯びてくる。
その感覚を楽しみながら,ラブはぼんやりと思考をつづけた。
ラブの母親は菓子作りが得意だ。
毎年,彼女は気合を入れて父のためにチョコレート菓子を準備する。
愛子もそれを手伝うのが恒例となっていた。
(去年は…,そう)
去年のバレンタインデーのとき,美紀を始めとした防衛組女子(マリアを除く)は,ファンクラブの名にふさわしく各々が気合の入ったチョコレート合戦を繰り広げた。
みなの顔は真剣で,でも同時に可愛らしくて,ラブはそれを楽しげに見ていたのだ。
それはまさに“恋する乙女”の表情で。
ラブは,自分はどこか冷めた人間だと思っている。
クラスメートのそんな表情を見ても「恋って面白そうね」としか思えなかった。
自分があんな風に夢中で誰かを好きになることなんて出来そうにないと思っていたし,出来なくても別に構わないと思っていた。
だから,自分はその戦いに身を投じるつもりはなかった。
ファンクラブの一員だと言ってもそれはあくまで「付き合い」で入ったようなものだったし,自分のそんな低いモチベーションでは周りの皆に失礼だと思ったからだ。
しかし。
うきうきと菓子を準備する母親に「愛子も誰かに作らない?」と聞かれ,つい頷いた自分が居たのだった。
それは,まあほんとについでに,といったものだったし,何より菓子作りに興味があったので,挑戦したいと思う方が先に立った。
(だから)
だからそのチョコには他のみんなほどの気合も込めていなかっただろうし,言わば義理チョコ…とまではいかなくても,お世話になった印というか,そんな気軽なものだったのだ。
気軽なものだったのだ。
だから,「一応」。
(…って,思おうとしていたのかしら)
今はかつての自分を振り返って,そう思う。
飛鳥のことを自分はどう思っているのか。
割と人のことをちゃんと見ている,と自負しているラブは,その自問自答にすら客観的な(と思えるほどの)評価を下してしまう。
成績がいい。
比較的冷静に状況を判断できる。
スポーツのセンスがある。
顔も綺麗に整っている(たまに女の子かと思えるほどだ)。
家もしっかりしているし,つまりはまあ,金持ちの家の子だ。
自分に自信があり,そして自信を持てるだけの材料を持っている。
しかし,ラブにとってそれはあくまで上辺だけのことにすぎない。
だから最初は,飛鳥という人間を「引いて」みていたところがあった。
他の女子がみな格好いいと騒いでいても,「それが何だっていうの」と思うところもあった。
そういう意味では,ラブは他の女子よりもずっと遠巻きに,そして冷静に飛鳥を判断していたのかもしれない。
女の子にもてる材料を沢山携えた人間にどこかケチをつけかったのかもしれない。
それは飛鳥自身に対してというよりも,ラブ自身が見かけや上辺に惹かれてしまいたく無かったと言った方が的を得ているだろうか。
或いは,ただ単に「流れに乗ってしまう」ことを良しと出来なかった頑なさか。
飛鳥と同じクラスになって,ほぼ2年。
防衛組という特殊な環境に身を置く羽目になって,そのお陰なのであろうかクラス全員が強い絆で結ばれている。
―色々なことがあった。
邪悪獣と戦う日々の中で,喧嘩をしたり,泣いたり,怖い思いをしたり,でも楽しいことも,嬉しいこともそれ以上にあった。
きっと普通の毎日を過ごしているだけであれば,見えなかったであろうクラスメートの様々な面も知ることが出来たのだ。
(そう,だから次第に,)
次第に,ラブは飛鳥の“上辺だけじゃない”部分を知って行ったのだ。
澄ましているように見えても,意外と熱しやすいところ。
クールになりきれない,情に厚いところ。
少々おせっかいな面があるところ。
大人ぶっているように見えても,結構子どもっぽい面も持っているところ。
負けず嫌い。
自分に厳しいところ。
努力家であるところ。
そのくせ,ときどき不意を突くように見せられる,“格好いい”表情。
顔の造作のせいでは無くて,それは彼の内面から溢れだす魅力のせいなのだろう。
最初は飛鳥がどういう人間なのか見極めたいという欲求からだった。
どうして皆が彼に惹きつけられてしまうのか。
そういう興味からであったのに,いつのまにか,
(…いつのまにか,私も)
惹きつけられてしまっていた。
お湯に指先を当てたままぼーっとしていたことに気づいて,ラブは苦笑する。
(考え事して惚けるなんて。これじゃまるで)
まるで,恋しているようではないか。
他人事のようにそう思って,ラブは再び苦笑する。
蛇口を捻り,湯を止める。
指先はすっかり温まり,すこしふやけてしまったようだ。
恋をしている。
そんな状態を心のどこかで冷静に見つめる自分が居る。
見つめながら,自分の変化を楽しんでいる。
(だから,美紀)
先程までどんなチョコレートを贈るかを一緒に悩んでいた親友の,可愛らしい表情を思い浮かべる。
(あたしも,今年は「一応」じゃなくて…)
自分も,美紀のような可愛らしい“恋する乙女”になるのだろうか?
とてもそうはならないような気がするけれど,でも。
美紀はさっき,ラブこそ負けず嫌いで頑張り屋だと言った。
そうであるなら,大好きな親友もライバルである。
ライバルであるからこそ,ラブは手を抜きたくなどなかった。
だからようやく訪れた自分の恋心に素直に従ってみようと思うのだ。
そうして従った先にどんな自分が待っているのか,今は到底予想できないけれど。
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