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温かな食卓

「中介!いい加減に風呂に行きなさい!」
地の底から響いてくるような野太い声に,中介はびくりと体を震わせる。
さっきから騒がしい音を立てる夕方のアニメーション番組のエンディングテーマを横目で見ながら,それでもしぶしぶ中介は立ち上がった。
「小介の頭もちゃんとあらってやるんだぞ」
そう言い置いて,彼らの兄である大介は,ミク郎のために小さな器を用意した。
へいへい,と髪の毛をぼりぼりと掻きながら気の無い返事を返した中介が脱衣所へ入ったのを見届けて,大介はレンジのスイッチを捻る。
ぶぉ〜んと音を立てて,レンジの内部に灯りがともる。
ミク郎はさっきから食卓の脇にしつらえた赤ちゃん用の椅子から身を乗り出して,大きな兄が動き回る様子を面白そうに眺めていた。

ガスレンジのスイッチを捻り,雪平鍋を火に掛けながら大介は振り返って冷蔵庫の上に掛けられた時計を睨んだ。
…母ちゃんとタイ子は,まだ戻ってこない。

電子ジャーのタイマーが,残り5分を切っているのを確かめ,沸騰した湯に粉末状の出汁を放り込む。
さきほど刻んでおいた大根も加え,おたまで簡単にかき混ぜているとレンジが温め完了を知らせた。

夕方の佐藤家はいつもこんな具合に慌ただしい。
一昨年生まれた小さな妹が,今のところぐずりもせず大人しくゆりかごにおさまっているのがせめてもの救いか。
「にいたん」
ミク郎が腹が減ったと催促を始めて,大介は「はいはいちょっと待ってろよ〜」と答えてやる。
味噌汁を作りながら,ミク郎のために温めたおじやを器に開ける。
解凍しておいたサバの切り身を網の上に並べ,ガスの火を「中」に設定する。

大介の母と妹のタイ子は,揃って買い物に出掛けたまま未だ戻ってこない。
中介と小介が風呂からあがる前にミク郎の夕飯を済ませてしまおうと,大介が椅子に座った時だった。
リンリーン,と電話のベルがけたたましい音を立てる。

音に反応してぐずり出す妹をなだめながら,大介は急いで受話器を取った。
懸念していた事態では,どうやらなかったようだ。
電話越しに,母の声が聞こえてくる。

『大介,悪いね。遅くなって』
「いいよ,それで母ちゃん,今どこにいるの」
『ああ,今まだねえ,駅前の商店街にいるんだよ』
ということは,今すぐに商店街を発っても,最低30分はかかる。
「もう買い物はすんだの?」
『ああ,あらかた。あとひとつ,無敵デパートにタイ子が寄るって聞かなくてねえ』
「え〜?今からデパートに行くの?」
商店街からデパートまでは,10分はかかる。大介はすばやく計算する。
『ごめんねえ,なるべく早く済ませるから』
「タイ子に言ってくれよ。妹たちがぐずってるから今日はもう帰ってきてくれって」
『ああ,聞いてみるけど…』
電話越しの母の声が陰る。
ガサガサと雑音に混じって,タイ子がいやだと言い張る声が聞こえた。
「もしもし?母ちゃん?」
『ああ,はいはい』
「とにかくなるべく急いで帰ってきてくれよ。ミク郎たちはこっちで食べさせるにしても,母ちゃんが戻ってこないと…」
大介が言い終わらないうちに,ゆりかごから妹がぎゃあと泣きだした。
「…そういうわけで,頼んだよ」
『はいはい,わかったよ。帰るまで悪いけど,お願いね』


受話器を元に戻して,大介はふうと一息ついた。
とりあえず,邪悪獣出現の連絡で無い分だけ,ましだった。
…ただ,母が戻ってくるまでの約1時間(さきほどの計算により導き出した),彼の背後で食器をかちかち鳴らして遊んでいるミク郎と,機嫌を損ねた妹と,もうすぐ風呂から上がってくるであろう(もしくは風呂でひたすら遊びふざけ続けるであろう)弟たちの面倒を看なくてはならなくなった。
あと一時間の惨状を思って,大介はまた小さく息を吐き出した。


(タイ子のやつがわがまま言ったせいだ)
味噌汁を作り終え,サバをひっくり返しながら,大介は苛々した。
(さっきの電話でだって,母ちゃん困ってたじゃないか)
たっぷりの湯を沸かし,塩を一つまみ放り込む。
蛇口を捻り,冷たい水を我慢しながらほうれん草をざっと洗った。
(帰ってきたら,注意してやらなきゃ)
妹がまた泣きだして,大介は宥めに行ってやらねばならなかった。

風呂でさんざん遊んでいたらしい弟たちを叱り,風呂から上がらせる。
風邪をひかないように着替えを急がせ,(中介!テレビばっかり見てるんじゃない!しまいにスイッチを切るぞ!)髪を乾かさせる(小介!コードで遊ぶなっていつも言ってるだろ!)。
放っておくとまたテレビに夢中になってしまうので,無理やり食卓に引っ張ってきて食器の準備をさせる。
その間におひたしを作り,サバを皿に盛って,味噌汁を温めた。

「ねえ母ちゃんたち,まだ?」
箸をぱちりと音を立てて置きながら,中介が聞いてくる。
「さっき電話があったんだ。7時過ぎには戻ってくるだろ」
「でも兄ちゃん,俺らだけ先に食べちゃっていいの?」
…そう言えば,さっきそれを聞いておくのを忘れていた。
大介は食卓を見下ろす。
すでに温められた味噌汁,炊きあがり蒸らしも済ませた米,皿に盛られた焼きたてのサバ,そしておひたし。
……。
「もう出来あがっちゃったし,お前らもお腹すいたろ。先に食べよう」
大介はそう判断を下した。

点けたままにしておくと真面目に食べようとしないので,食事中はテレビの電源を落としてある。
そのせいか,部屋の中はやけにしんとした。
食器のかちあう音だけが響いている。

(もうちょっと,待てばよかったかな)

大介は冷蔵庫の上に視線を移した。針は7時を指している。
外はもうすっかり日が落ちて,カーテンの隙間から藍色の空が見えた。

妹がまたぐずりだして,大介は食事を中断する。
(早く帰ってこないかな)

「早く帰ってこないかな」
小介がぽつりと呟いた。


母とタイ子が戻ってきたのは,結局7時半を回ったところだった。
「遅くなってごめんねえ」
母はそう言いながらマフラーを外す。
タイ子はと言えば,帰ってくるなり(うがいもしないで)母の部屋へ駆けこんでいった。
「遅いから,先に食べちゃったよ」
中介がそう言って,母は「いいんだよ。お腹すいてたんだろう?」と答えて,着替えをしに部屋へ向かった。

「タイ子…。タイ子!」
「……」
「タイ子!」
ごそごそと何かを仕舞っていたらしいタイ子のくぐもった声がふすま越しに聞こえる。
「早く手を洗ってうがいをしろよ。ご飯食べるんだろ?」
つい,声が大きくなってしまう。
「…はーい」
自分達の食器を下げながら,大介は苛々していた。
もう一度,二人のために味噌汁とサバを温めなおさなくてはならない。

とたとたとた,と足音がして,タイ子が洗面所に向かったことがわかる。
ぎゃあんと妹が泣きだして,母がよしよしとあやしに向かう。
テレビから流れるバラエティ番組の音が鬱陶しく思えて,大介は余計に苛々した。

それでも二人分の食器を並べ,盛りつけていると,ようやくタイ子が台所へやってきた。
タイ子は心なしか俯いている。
「…タイ子,食べないのか?」
「食べる」
「母ちゃんは?」
「ああ,いただくよ。でも先にこの子を落ち着かせないとね」
母は和室からそう答えた。

食器を置くのも乱暴になってしまった。
そんな大介の様子を察知しているのか,さきほどから中介も小介もいつものような無駄口を叩かずじっとテレビ画面を見つめていた。
テレビからたまに漏れる笑い声が,やけに厭味ったらしく響いてくる。
もそもそとご飯を口に運ぶタイ子に向かって,
「兄ちゃんが怒ってるってわかってるか?」
と低い声で話しかけると,タイ子はちいさく頷いた。
「…どうして怒ってるかってのも,じゃあ分かってるな?」
また,ちいさくこくり。
「次にどう言えばいいかも,もう分かってるんだな?」
…頷かない。
「タイ子」
…やっぱり,頷かない。
「兄ちゃんたち,随分待ったんだぞ」
タイ子は俯いたまま,ご飯を食べ続けている。
「兄ちゃんはいい。でもタイ子,お前は姉ちゃんだろ」
つい声を荒げてしまう。でも大介は止められなかった。
「……」
「お前の我儘のせいで,ミク郎や妹が寂しい思いをしてたのに…,それでもタイ子は謝らないのか?!」
半ば怒鳴りつけるように言うと,タイ子がばたり,と両手を置いた。
「何だ?兄ちゃん間違ったこと言ったか?!」
「……」
「いいか,お前は姉ちゃんなんだ!自分の買い物をしたいからって,きょうだいに我慢をさせて,それでも姉ちゃんか!」
「……」
「そんな我儘なやつは,姉ちゃん失格だ!」
ぽたぽたっ,と雫が落ちた。
きっと顔を上げたタイ子は,ぎょっとしている大介を睨みつけている。
「…姉ちゃんだもん!」
絞り出すようにそう言うと,タイ子は席を立って駆けだした。
「おい!タイ子!」
大介の声を振り払うように,大きな音を立てて玄関のドアが閉まった。


「…大介」
振り返ると,母が心配そうに立っている。
「…ごめん,母ちゃん」
「大介」
「でもあいつがわがままだから…こういうことはちゃんと叱っておかないと,駄目なんだ」
一人がわがままを通していたら,家がうまく立ち行かない。
「違うんだよ」
「え?」
「違うんだよ,あの子はわがままじゃないんだよ」
「…どういうこと?母ちゃん」

母は和室に戻り,紙袋を持ってきて見せた。
紙袋には「無敵デパート」のロゴマーク。
「大介,中身をちょっとみてごらん」
そう言われて,やけにずっしりと重いその中身を見る。

「……!」

それは,チョコレートだった。
ひとつひとつが,可愛らしい色合いの包装紙にくるまれている。色違いのリボンとともに。
動きを止めたままの大介の耳に,母の声が聞こえてくる。

「あの子ね,お年玉全部使ってこれを買って帰るんだって言いだしてね。」

「ねえ,本当に馬鹿な子だよねえ,わざわざデパートで立派なものを買わなきゃ気が済まないんだって…」

「直前に買わないと,中介たちがすぐ見つけ出しちゃうからって」

「ねえ,あの子は本当に馬鹿で…優しい子だねえ…」


本当だ。
本当にあいつは,馬鹿で。
馬鹿で意地っ張りで,素直じゃなくて。

大介は紙袋をそっと床に置くと,ジャンパーを手に持って家を飛び出した。
きっとあいつは,団地の公園に行ったに違いない。

冷たい夜気にさらされた大介の体がぶるりと震えた。
手にしたジャンパーは,さっきの包装紙とよく似た,明るい赤色をしている。



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