back to MAIN  >>  ss top
appetitio

こころの中ではいつだって,ちいさな争いが繰り広げられている。
どちらが正しいことでどちらが間違ったことなのか,ひろしにはもうずっとわからない。


去年のことを思い出せば,この時期自分がどうしていればいいのかということくらい,ひろしは心得ていた。
彼の幼馴染がどんなにそわそわした様子を見せていようと,たとえ多少情緒不安定であったとしても,下手に触れるべきではないということ。

去年はうっかりぴりぴりしたクッキーに話しかけ,すげない返事をされて一人落ち込んだ。
クッキーだけじゃなくて,この時期の女子はやけに殺気立っている。
ひろしはどうもそのテンションについていけない。
ついていけないので,『触らぬ神に祟りなし』を実践するのである。

ただ,このイベントに関して極力触れないように心がけているものの,やはり気になるところではあった。
彼の幼馴染がここのところずっと情緒不安定であることが,ひろしを心配させているのだ。

様子が変であると言えば,きららもまた妙にテンションが低い。
去年であれば,今頃はクラスの女子の誰よりも気合が入っていて,その気合が強すぎて…周りが振り回されたと言うのに。
今年はやけに大人しいような気がして,ひろしは気になった。
……気になってはいるが,きららに「どうしたの?」と話しかけるほど,ひろしには誰かを心配する余裕がないのだ。


クラス中の誰も彼もが,バレンタインと言うイベントに振り回されているようだった。
そしてひろしもまた,ある意味このイベントに引きずられている一人だった。
それは例えば,彼の後ろの席で息巻いているあきらのような,「チョコが欲しい」オーラを振りまいているというわけでもなくて。
どちらかといえば,テストに感じる憂鬱な気持ちの方が近いと言った方がいい。

バレンタインは,ひろしにとって辛い審判が下される日に等しかった。

ひろしの想い人は,クラス一(いや,きっと学校一であろう)のモテ男に夢中であるからだ。
だからこのバレンタインと言うイベント前は,どうしたら飛鳥にアピールできるかどうかを一生懸命考えている彼女に付き合わねばならなかった。
端から見ていても,飛鳥のことを想うクッキーの表情はきらきらしていて,楽しそうで,それがとても…,
とても可愛くて。

だからとても寂しかった。

好きな子が楽しそうだったら嬉しい。
でもその楽しい理由が,自分じゃない誰かによるもので,そしてそれが,その誰かを大好きだと思っているからだなんて…,

(そういうのって,結構辛い)

それでも去年は,クッキーから小さなチョコレートを貰った。
明らかに,飛鳥宛のチョコレートとは差があったとはいえ…,貰えただけでもすごく嬉しかったのだ。
少なくとも,自分のことを少しは気に掛けてくれていたことがわかって。


ひろしは左斜め45度に視線をずらす。
もう二年,この場所から彼女の後姿を見つめている。

見つめているだけでは,想いは届かなかった。


(今年もやっぱり,クッキーは頑張ってチョコレートを作って,それで,飛鳥に渡すんだろう)

さらさらと揺れる栗色の髪の毛を,どんなに想いを込めて見つめてみても,彼の大好きな幼馴染の胸の内などひろしに判る術もなかった。


9月にはじめて,ひろしは自分の思いを伝えた。
伝えただけで,最初は満足だった。
しかし,だからと言ってクッキーの恋を応援する気持ちには,到底なれなかった。
自分の気持ちを伝えてからこれまで,クッキーの態度は変わっていない。
仲の良い幼馴染に対する,そのままで。

そんな状態に,ときどき我慢できない気持ちに襲われることもある。
飛鳥と楽しそうに話すクッキーを,恨めしい気持ちで眺めたことも一度や二度ではない。


(クッキーはあいつが好き。)

好きな子が,いつでも笑顔でいてくれたらと心の底から願っているのに,

(クッキーはあいつが好きなんだ。)

その笑顔を独り占めしたいと願う自分が確実に存在している。



視線を元に戻す。
机の上に置かれた,卒業文集の資料が並んでいる。
原稿を提出した人をチェックして,ページの割り振りをしなくてはならなかった。

今年もまた,こんなもやもやした気持ちを抱えたまま,当日を迎える。
手にした資料に集中しようとしても,どうにも気が散って仕方が無かった。


ひろしくんと,一緒にいたいの。

いつかクッキーはひろしに向かってそう言った。
そう言われて嬉しかったのに,しかしひろしは同時に悲しかった。
それは幼馴染として,という意味だったからだ。
彼は言われる前から,…そう,とっくの昔からわかっていたのだ。

その答えに満足していた。
否,満足できると思っていた。
…きっと,満足したいだけだった。

物分かりの良い,穏やかな幼馴染でいられたらどんなに良かっただろう。

鉛筆を手放して,ひろしはそっと拳を胸に押し当てた。


(クッキーはあいつが好き。)

胸がどくどくと悲鳴を上げている。

(だからクッキーが一番嬉しいことは)

拳を固く握りしめる。

(僕が願っているようにきっと)



…辛かった。

息が出来ない程苦しい思いをするのが,辛かった。



自分の想いを貫こうとすることと,クッキーの幸せを願うことと,どちらが正解なのだろう。
どちらがマルで,どちらがバツなんだろう。


ひろしは席を立つ。
手元のプリントになど,もう構っていられなかった。


<< prev  next >>
back to MAIN  >>  ss top